能登末森城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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能登末森城(すえもりじょう)は能登と加賀の国境に近い末森山に築かれた山城で、小牧長久手の戦いの際に羽柴方の前田氏と徳川方の佐々氏の戦の舞台となった城である。
末森城は加賀と能登を結ぶ重要な拠点となることから防御が固められており、山中一帯に曲輪が多数置かれている。
『長家系譜』によれば天文19年(1550年)には城堡が置かれており、築城者は能登畠山家臣で当地を治めていた土肥但馬であるという。
一方、越後上杉氏の記録では越中の国人土肥親実が上杉氏の能登進出に従軍し恩賞で末森の地を与えられたとされており、土肥但馬と土肥親実の関係等不明瞭な点も多い。
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上杉氏に従っていた土肥親実は天正8年(1580年)に柴田勝家らが能登に進出してくるとこれに降伏し、能登を与えられた前田利家の与力となったが、賤ヶ岳の戦いで討ち死にした。
前田利家は賤ヶ岳の戦い以降羽柴秀吉に従い加賀と能登を治めていたが、天正12年(1584年)に小牧長久手の戦いが起こると、北陸では越中の佐々成政が徳川家康に呼応して前田領に攻め寄せた。
佐々勢は利家の所領を分断することを意図して末森城を包囲し、末森城に入っていた前田家臣奥村永福らが籠城の構えを見せた。
佐々勢の攻撃は激しく、土肥親実の弟で城代の土肥次茂が討ち死にし、二の丸まで制圧されるなど落城の危機に瀕したが、翌日には利家自ら援軍として駆けつけ佐々勢を討ち払ったことで危機を脱した。
その後も前田氏が治めていたが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。
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廃城に際して、主門は[[金沢城]]の鶴の丸南門として移築されたが宝暦9年(1759年)に火災で焼失し、本丸建物も津幡に移築され江戸時代を通じて加賀藩の御旅屋として利用されたが、こちらも明治10年(1877年)に火災で焼失している。
城跡は平成3年(1991年)に石川県指定史跡となっている他、昭和60年(1885年)から行われた発掘調査では鉄砲の弾などの多くの遺物や、山中に配された曲輪の実態が明らかになり、大規模な山城であったことが判明している。
現在ではかなりが藪の中になっているものの、山道に沿って多数の曲輪が確認できる他、堀切やそこに設置された土橋なども残されている。
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|所在地|石川県羽咋郡宝達志水町竹生野|
|現存状態|堀切、土橋、曲輪|
|城郭構造|山城|
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