阿弖流為(アテルイ)が率いる蝦夷を征討するために征夷大将軍として派遣された坂上田村麻呂が、延暦21年(802年)に築いた。 胆沢城は北上川と胆沢川が合流する地点の西南の平地に位置し、それまでの城柵の多くが丘陵上に築かれたのとは異なる。 これは蝦夷征討後の胆沢地域を治める拠点であることを意味し、胆沢城の完成後に鎮守府が多賀城から移されている。 胆沢城に移転した鎮守府は整備が進められ、9世紀後半には礎石建てで瓦葺きの政庁となり、多賀城にある陸奥国府と陸奥国を分割する、第二国府のような役割を担っていた。 胆沢城は多賀城・玉造塞とともに10世紀まで陸奥国の中心として機能したが、10世紀後半には胆沢城南方の伯済寺のような、国司館の役割を担っていた拠点に中心が移っていったと考えられている。
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