縣松尾城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

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土持氏の宗家にあたる縣土持氏が6代134年間にわたって本拠地とした城で、「懸城」とも呼ばれる。
土持氏は豊後の宇佐八幡宮の神職であったといい、やがて日向の荘園領主となって日向北部の臼杵郡を中心に勢力を拡大し、平安時代末期には「土持七頭」と呼ばれる七家が縣、[[財部>高鍋城]]、清水、都於郡、瓜生野、[[飫肥>飫肥城]]に所領を持ち、縣土持氏は宗家として栄えた。
鎌倉時代には縣土持氏の土持宣綱(栄妙)が幕府の御家人として宇佐宮荘園の地頭職を拝命し、同時期に伊豆伊東荘を本拠地とする伊東氏の分家が日向に入った。
鎌倉幕府の滅亡後は足利尊氏の命で伊東氏本家の伊東祐持が日向に下向し、以後伊東氏は土持氏と縁戚関係を結んで日向に土着していった。
やがて土持氏と伊東氏は対立するようになり、文安元年(1441年)に土持宣綱(孫太郎)は縣松尾城を築いて文安3年(1443年)に西階城から居城を移し、以後戦国時代末期に至るまで縣松尾城が縣土持氏の本城となった。

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縣松尾城は五ヶ瀬川北岸の丘陵を主郭とし、そこから北と東に伸びる尾根筋に曲輪が配置され、城下には旧高千穂街道が通っていた。
城の南には五ヶ瀬川とその支流である小峰川が天然の水掘となり、土持氏の南に勢力を持つ伊東氏に対する構えとなった。
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長禄元年(1457年)に財部城が伊東氏によって落城し財部土持氏が没落したことで、縣土持氏は伊東氏と直接境を接することとなり、豊後の大友氏に臣従し、また薩摩の島津氏とも結んで伊東氏に対抗した。
16世紀になると島津氏が薩摩・大隅を平定して日向に侵攻し、天正5年(1577年)に伊東義祐は[[佐土原城]]・[[都於郡城]]を捨てて豊後に落ち延びた。
縣土持氏の土持親成は大友氏から離反して島津氏についたが、翌天正6年(1578年)4月に日向に侵攻した大友宗麟によって縣松尾城は落城、親成は自害させられ縣土持氏は没落した。
同年11月、大友氏が耳川の戦いで島津氏に敗れてからは縣は島津領となり、親成の実子の親信あるいは養子の高信(のちの久綱)が島津義久配下の縣地頭として縣に復帰し、縣松尾城に在番した。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐の際には縣松尾城は豊臣秀長によって落とされ、秀吉が島津氏の所領を没収したため、またも土持氏は縣を追われた。
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代わって縣を与えられたのが、秋月種実の次男で高橋鑑種の養子となっていた高橋元種で、豊前香春岳城から縣松尾城に移った。
元種によって縣松尾城は改修され、主郭部に堀切・空堀・竪堀・土塁が多用される、現在見られるような姿となった。
関ヶ原の戦いで元種は当初西軍に属し[[大垣城]]に籠城していたが、兄の秋月種長に従って東軍に内応し、大垣城内の西軍諸将の殺害や降伏勧告などの功が認められ、徳川家康に所領を安堵された。
その後元種は慶長6年(1601年)に[[縣城>縣延岡城]](延岡城)の築城を開始し、慶長9年(1603年)に完成すると縣松尾城から移って新たな居城とした。

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|所在地|宮崎県延岡市松山町|
|現存状態|堀、土塁、堀切など|
|城郭構造|山城|
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