結城白川城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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福島県白河市藤沢山にあった山城。鎌倉時代に結城氏により築城。ただし詳しい築城・廃城年代ともに不明。搦目城・白川(白河)城ともいう。
*現実の城情報 [#information]

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福島県白河市藤沢山にあった山城。下総を本拠とする結城朝光が文治5年(1189年)に源頼朝から白河荘を与えられ、その孫で白河結城氏の祖となる祐広が鎌倉時代の13世紀後半に築城したという。ただし詳しい築城・廃城年代ともに不明。搦目城・白川(白河)城ともいう。
祐広の子の宗広は後醍醐天皇に従って新田義貞とともに鎌倉幕府を滅ぼし、その功によって結城氏の惣領として認められ、さらに後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏を破ったことで鬼丸国綱を賜っている。
宗広の死後に白河結城氏を継いだ親朝は[[白河小峰城]]を築き、小峰氏を興した。親朝は当初南朝方として活動していたがその後北朝方に転じ、白河結城氏繁栄の基礎を築いた。親朝の死後、白河結城氏の惣領家は長男の顕朝が継ぎ、次男の朝常は白河小峰城を与えられて小峰氏を継いだ。
その後の白河結城氏は白河荘全体を支配し、現在の福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職に任じられ、室町時代には陸奥南部から北関東にまで勢力を広げた。しかし永正7年(1510年)に結城政朝が小峰氏に追放され、小峰氏が白河結城氏の惣領家を継ぎ、この時に白河結城氏の本拠も結城白川城から白河小峰城に移ったという。
現在は里山に城があったことを示す石碑と石積みがわずかに残る程度。地元では同じ市内にある白河小峰城の方が有名で地元民でもこちらは知らない人が多い。

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結城白川城は阿武隈川右岸の標高約400メートルの丘陵上に築かれ、丘陵西側の頂上部は御本城山と呼ばれ主郭が置かれていたと考えられる。
御本城山地区から北東には中山地区、さらにその東側に鐘撞堂山地区、搦目山地区と呼ばれる丘陵があり、御本城山地区の西側には藤沢地区が位置する。それぞれの丘陵部には頂上部に平場が配置され、斜面には階段状に小規模な平場と堀切が設けられ、これらが大きなまとまりとして城域を構成している。
平成22年(2010年)度から平成26年(2014年)度にかけての発掘調査では結城白川城の変遷が明らかになり、南北朝時代には御本城山地区が中心であり、室町時代以降は東部の搦目山地区に移動したことがわかった。
さらに白河結城氏の本拠が白河小峰城に移った後の16世紀後半に、御本城地区と藤沢山地区で大規模な整地が行われたことが確認され、この時期に城域が広範囲に広がり大改修が行われた可能性が考えられている。
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これらの発掘調査で結城白川城は南北朝時代から戦国時代にかけての遺構が良好に残っていることが確認され、南北朝時代以降に陸奥南部から北関東にかけて勢力を有し繁栄を築いた白河結城氏の本拠としてふさわしい城であると明らかになったことで、平成28年(2016年)に「白川城跡」として国の史跡に指定された。
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城の北東部の断崖には、文化4年(1807年)に地元の大庄屋内山官左衛門重濃が掘らせた磨崖碑である感忠銘碑が存在する。これは結城宗広とその子で楠木正成らとともに「三木一草」と称される結城親光の後醍醐天皇に対する忠烈を後世に伝えるためのもので、題字の「感忠銘」は白河藩主の松平定信が書き、文章は白河藩校の立教館教授である広瀬典が、書は立教館習書局の習書師である賀孝啓による。

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|所在地|福島県白河市|
|現存状態|一部の石積みのみ|
|現存状態|土塁、堀、石積など|
|城郭構造|山城|
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