鎌倉幕府の有力御家人として要職を歴任した結城氏の居城で、結城合戦の舞台となったことでも知られる。 築城年代は明らかでないが、小山氏の祖である小山政光の三男で結城氏初代の朝光が寿永2年(1183年)に築いたとされ、南北朝の動乱で足利方についた結城氏一族が結城郡に城を築いたと記す史料もある。 室町時代の結城氏は下野守護を務め、下野・常陸・下総・武蔵にまたがる一大勢力圏を築き、関東八屋形に数えられた。 結城氏は室町時代を通じて一貫して鎌倉府の足利氏に与し、結城氏朝が永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児を擁立して挙兵し、永享12年(1440年)に結城合戦が起こった。
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結城城は田川西岸の河岸段丘上に立地し、三方を湿地帯に囲まれその外側を蛇行して流れる田川が外堀となる天然の要害で、幕府方の大軍を相手に一年近く攻防戦を展開したが、小山氏・山川氏の離反もあって落城し、結城氏は一時滅亡した。 その後、足利持氏の遺児永寿王丸が足利成氏として鎌倉府を再興すると、結城氏もまた氏朝の末子成朝によって再興された。 成氏が古河に逃れて古河公方を名乗ってからも結城氏はこれを支持し、政朝・政勝の代で勢力を回復した。
政勝の養子・晴朝の代になると古河公方の衰退に伴って結城氏の勢力も減退したが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に従い所領を安堵された。 晴朝は徳川家康の次男で秀吉の養子になっていた羽柴秀康を養子に迎え、中久喜城に隠居した。 秀康は結城郡に入ると領内の変革を進め、中世の縄張を継承しつつ城と城下の整備が行われた。 慶長7年(1602年)に秀康が越前北ノ庄に転封すると結城城は一時廃城となったが、元禄13年(1700)年に水野勝長に入って結城城を再建し、以後結城藩水野氏の居城として幕末まで存続した。
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