篠脇城 のバックアップ(No.4)

現実の城情報 Edit

篠脇城(しのわきじょう)は岐阜県郡上市(美濃国郡上郡)にあった、鎌倉時代から同地を治めた東氏の本城として使われた城である。
郡上郡を流れる長良川の支流栗巣川の側にある標高523メートルの篠脇山に築かれた山城で、山頂に本丸を持ち、周囲を放射状に山麓にまで及ぶほどの多数の竪堀で固めている。
桓武平氏良文流の下総千葉氏は千葉常胤の代に治承・寿永の乱で安房国に落ち延びた源頼朝に協力し、その後の奥州平定や承久の乱においても多くの所領を得て、葛西氏や相馬氏など一族が各地に広がっていった。
美濃郡上郡の東氏も千葉常胤の六男胤頼に始まる千葉氏一族で、その孫胤行の代に承久の乱の戦功により美濃国郡上郡の山田荘の地頭となり、その後庶流が当地に土着した。
美濃東氏は当初阿千葉城を拠点としたが、南北朝時代に東氏村が越前国の南朝方への備え等から新たに築いたのが篠脇城である。


所在地岐阜県郡上市大和町牧字志ノ脇
現存状態竪堀、堀切
城郭構造山城

篠脇城と和歌を巡る伝承 Edit

東氏初代東胤頼やその子重胤は藤原定家やその子二条為家に仕え和歌を学ぶなど、東氏はその始まりから歌道によく通じ、御家人の間でも評判であったという。
これは重胤やその子胤行が鎌倉三代将軍源実朝に重用されていたことからもうかがえる。
その後も美濃国に移った庶流の一族と見られる人物の歌が各時代の和歌集に見られるなど、美濃東氏は歌人の家であったと言える。
とりわけ15世紀に活動した東常縁は冷泉派の清巌正徹に学んだ後、二条派の尭孝の弟子となり歌を習い、その才覚を発揮した人物として知られている。



連歌師である宗祇は、常縁から古今和歌集の解釈を学ぶために度々篠脇城に赴いていたことが知られており、歴史上はこれが最初の古今伝授として伝えられている。

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示

  • このページ、下の部分は折り畳まないん? -- 2017-05-24 (水) 01:48:12
    • 実際のところ、どう折りたたむのが読みやすいか悩んでる -- 2017-05-24 (水) 01:53:18
  • 司馬遼太郎がネタで「日本でもっとも高い原稿料」と表現したの好き -- 2018-01-15 (月) 00:20:16
  • 説明の中の応仁の乱に関する記載、東軍と西軍反対ではないですか? -- 2018-01-15 (月) 13:07:02
  • 現実の城情報の最終案のテンプレに則って、下の題名付きの説明部分を折り畳みました。 -- 2019-04-13 (土) 18:05:24
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*1 鎌倉大草紙はその内容から東常縁に近しい人物が書いた可能性が指摘されている


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