篠脇城 のバックアップの現在との差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]

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篠脇城(しのわきじょう)は岐阜県郡上市(美濃国郡上郡)にあった、鎌倉時代から同地を治めた東氏の本城として使われた城である。
郡上郡を流れる長良川の支流栗巣川の側にある標高523メートルの篠脇山に築かれた山城で、山頂に本丸を持ち、周囲を放射状に山麓にまで及ぶほどの多数の竪堀で固めている。
桓武平氏良文流の下総千葉氏は千葉常胤の代に治承・寿永の乱で安房国に落ち延びた源頼朝に協力し、その後の奥州平定や承久の乱においても多くの所領を得て、葛西氏や相馬氏など一族が各地に広がっていった。
美濃郡上郡の東氏も千葉常胤の六男胤頼に始まる千葉氏一族で、その孫胤行の代に承久の乱の戦功により美濃国郡上郡の山田荘の地頭となり、その後庶流が当地に土着した。
美濃東氏は当初阿千葉城を拠点としたが、南北朝時代に東氏村が越前国の南朝方への備え等から新たに築いたのが篠脇城である。
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鎌倉時代、室町時代と同地を治め続けた東氏であるが、応仁の乱では南の土岐氏の攻撃を受けるなど周囲の勢力の圧力にさらされ、家中の不安定もあり衰退を始める。
天文10年(1540年)、東氏が越前朝倉氏の攻撃を受けると、当主東常慶は支流である遠藤胤縁ならびに盛数兄弟の言を受け篠脇城で抗戦を決意。防御を固め、朝倉方の攻撃には竪堀から投石する等抵抗し撃退に成功した。
そのひきかえに篠脇城は甚大な損傷を受けることとなり、翌天文11年(1541年)再度朝倉氏の攻撃を受けるなどの情勢に東常慶は篠脇城を放棄、南の気良庄に赤谷山城を築き移ったため廃城となった。
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その後、東常慶の子常尭が遠藤胤縁を殺害した(これは常慶が常尭に胤縁の娘を娶らせようと考えたところ、胤縁がこれを断ったことを恨んでのことと言われている)ことで遠藤盛数が蜂起することとなる。
両者は赤谷山城で対峙した(この時遠藤盛数が築いた砦が[[郡上八幡城]]の基盤となった)ものの、間もなく赤谷山城は落城し常慶は戦死、常尭は飛騨国の内ヶ島氏のもとに逃れ、300年にわたり当地を治めた東氏は同地を離れることとなった。
常尭はその後天正大地震において発生した帰雲山の崩落による[[帰雲城]]壊滅に巻き込まれ死亡、内ヶ島氏とともに東氏は滅亡した。
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現在でも朝倉氏の攻撃を跳ね返すことに貢献した竪堀の遺構が篠脇山に多く残っており、他にも堀切が確認されている他、山頂付近の平地には案内板等も設置されている。
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|所在地|岐阜県郡上市大和町牧字志ノ脇|
|現存状態|竪堀、堀切|
|城郭構造|山城|

*篠脇城と和歌を巡る伝承 [#gc97a3c4]
初代東胤頼やその子重胤は藤原定家やその子二条為家に仕え和歌を学ぶなど、東氏はその始まりから歌道によく通じ、御家人の間でも評判であったという。

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*** 篠脇城と和歌を巡る伝承 [#gc97a3c4]

東氏初代東胤頼やその子重胤は藤原定家やその子二条為家に仕え和歌を学ぶなど、東氏はその始まりから歌道によく通じ、御家人の間でも評判であったという。
これは重胤やその子胤行が鎌倉三代将軍源実朝に重用されていたことからもうかがえる。
美濃国に移って以降も東一族と見られる人物の歌が各時代の和歌集に見られるなど、歌人の家として名声を得ていた。
その後も美濃国に移った庶流の一族と見られる人物の歌が各時代の和歌集に見られるなど、美濃東氏は歌人の家であったと言える。
とりわけ15世紀に活動した東常縁は冷泉派の清巌正徹に学んだ後、二条派の尭孝の弟子となり歌を習い、その才覚を発揮した人物として知られている。
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『鎌倉大草紙』の記述によると、
関東の騒乱において、千葉氏嫡流が庶流馬加氏に追放される事件が発生すると、幕府は千葉氏一族である東氏に嫡流救援と馬加氏征伐を指示。
当主で常縁の兄氏数は病身であったため、常縁がかわりに関東に出征し、馬加氏やこれを支援する古河公方らと交戦を繰り返した。
その最中、京では応仁の乱が勃発。西軍方と見られた東氏は東軍方の土岐氏家宰斎藤妙椿の攻撃を受け、氏数らは篠脇城で必死の防戦を繰り広げるも落城してしまう。
これを遠く関東で知った常縁は
 あるが内に 欺かるる世をしも 見ざりけん 人の昔の 猶も恋しき
と詠み、戦乱に向かう世をはかなんだ。
この歌が常縁に随行した人物によって京に伝えられると評判となり、ついには斎藤妙椿の耳にも入ることとなる。
歌の嗜みがあった斎藤妙椿は、この歌に感じいるところがあったか常縁に十首の和歌と引換に東氏の所領一切を返還することを提案。
これを受け、常縁は選りすぐりの十首を妙椿に送り、これを受け取った妙椿は約束通り篠脇城をはじめとする東氏の所領をすべて返還したという。
これを遠く離れた関東で知った常縁は
 あるが内に 欺かる世をしも 見ざりけん 人の昔の 猶も恋しき
と詠み、無念の思いとともに戦乱に向かう世をはかなんだ。
この歌が常縁に随行した人物の文によって京に伝えられると評判となり、ついには斎藤妙椿の耳にも入ることとなる。
当代きっての文化人の一人でもあり元から常縁と知己のあった斎藤妙椿は、この歌に感じいるところがあったか
同好の士(同じ歌詠みであること)である常縁に対して無礼な振る舞いができようかと、十首の和歌と引換に東氏の所領一切を返還することを提案。
これを受け、常縁は下の和歌に代表される選りすぐりの十首を妙椿に送り、これを受け取った妙椿は常縁が関東から帰還すると約束通り篠脇城をはじめとする東氏の所領をすべて返還したという。
 思ひやる 心の通ふ 道ならで たよりもしらぬ 故郷のそら
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これを文面通り受け取ることができるかは判断が難しい((鎌倉大草紙はその内容から東常縁に近しい人物が書いた可能性が指摘されている))ものの、武家社会において歌道が重要な教養となっていたことをうかがわせる史料となっている。
また、時代を代表する連歌士である宗祇は、常縁のもとを訪れ古今和歌集の解釈について学んだ。歴史上はこれが最初の古今伝授とされている。
これを文面通り受け取ることができるかは判断が難しい((鎌倉大草紙はその内容から東常縁に近しい人物が書いた可能性が指摘されている))ものの、武家社会において歌道が重要な教養となっていたことがよくわかる史料となっている。
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連歌師である宗祇は、常縁から古今和歌集の解釈を学ぶために度々篠脇城に赴いていたことが知られており、歴史上はこれが最初の古今伝授として伝えられている。
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