箕輪城 のバックアップ差分(No.3)

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*現実の城情報 [#information]

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武田信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と言わしめた、「上州の黄班」長野業正の居城。
長野氏は15世紀後半の享徳の乱の頃、関東管領で上野国守護職でもある山内上杉氏の傘下の一揆衆筆頭となり、箕輪城は永正9年(1512年)に長野業尚が築いたという説や、永正11年(1514年)あるいは大永6年(1526年)に憲業が築いた説など諸説ある。
この頃の長野氏は鷹留城を拠点としており、箕輪城に拠点が移った後に鷹留城には一族が配され、最重要の支城となった。
この頃の長野氏は[[鷹留城]]を拠点としており、箕輪城に拠点が移った後に鷹留城には一族が配され、最重要の支城となった。
長野氏の最盛期を築いた長野業正は娘を箕輪衆をはじめとする上野各地の国衆に嫁がせ、箕輪城を中心に鷹留城、国峰城、[[和田城]]、[[松井田城]]、安中城、倉賀野城、[[岩櫃城]]、[[厩橋城]]などによる、大小合わせて302とも数えられる支城網が構築された。  

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業正は、のちに新陰流を創始し「剣聖」と称される上泉信綱を筆頭とする「長野十六槍」を従え、弘治3年(1557年)から始まる武田信玄の西上野侵攻をことごとく撃退したが、永禄4年(1561年)の業正死後の長野氏は求心力を失っていく。
早くも同年末には、内紛によって国峰城を追われていた小幡憲重の先導で信玄による西上野侵攻が本格化し、国峰城が憲重に奪還され、和田業繁や安中重繁が武田氏に降伏して和田城・安中城・松井田城が明け渡され、倉賀野城の倉賀野尚行も城を退去して越後の上杉謙信の下へ逃れるなど、有力国衆の離反が相次ぎ各地の支城が次々と武田方の手に落ちていった。
最重要の支城だった鷹留城も落城し城主の長野業通は討死、あるいは越後へ逃れたといい、箕輪城は孤立することとなった。
天険の要害である箕輪城はここからしばらく持ちこたえたものの武田勢の猛攻によって追い込まれ、城主の長野業盛は父・業正の遺言を守って降伏せず最後まで抵抗し、永禄9年(1566年)9月に箕輪城は落城、業盛は自刃して箕輪長野氏は滅亡した。
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箕輪長野氏滅亡後は、かつて業正を頼って箕輪城下に居住したこともある真田幸綱(幸隆)や、武田四天王の一人・内藤昌秀(昌豊)など、武田氏の重臣が箕輪城代となるなど武田氏による西上野支配の最重要拠点となり、武田氏が滅亡すると織田信長の重臣滝川一益が厩橋城に移るまで入っていた。
本能寺の変後には北条氏政の弟である氏邦が入って[[鉢形城]]と城主を兼任し、豊臣秀吉来襲に備えて箕輪城の普請を進めたが、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に落城した。
新たに関東に入った徳川家康の重臣で徳川四天王の一人・井伊直政は、[[井伊谷城]]から箕輪城に徳川家臣中最大の12万石で入城し、城の普請と城下の整備によって箕輪城下町は当時の上野で最も賑わった町となった。
しかし慶長3年(1598年)、直政は新たな居城として[[高崎城]]を築き箕輪城は廃城となった。 


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|所在地|群馬県高崎市箕郷町|
|現存状態|曲輪、空堀、堀切、馬出、石垣、土塁、井戸、門跡など|
|城郭構造|梯郭式平山城|

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**城郭構造 [#i162fbf5]

箕輪城は榛名山から伸びる独立丘陵上の中心に築かれ、西の榛名白川と南の榛名沼が天然の堀となった。 
城内は尾根上に曲輪が直線的に配置され、さらにこれを中心に多数の曲輪が丘陵上に線対称に配置され、城域は東西約500メートル、南北約1100メートルにおよび、群馬県の戦国期城郭としては屈指の規模となっている。 
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箕輪城は大きく三つの時期に分けられ、最初期の箕輪城は長野氏・武田氏の時代で、その城域は現在の本丸・二の丸・三の丸の範囲だったと考えられており、本丸の南側と北側に堀が設けられた。
次の後北条氏の時代では城域が拡張され、その築城技術が投入されて形成された縄張が箕輪城を特徴づけるものとなる。
後北条氏流の築城は角馬出の多用や城域を長大な横堀で囲い込む構造が特徴だが、箕輪城でも角馬出が連鎖的に使われ、これは[[滝山城]]や鉢形城にも共通している。
また本丸の堀も改修されて周りを巡る長大な横堀となり、さらに箕輪城の最大の特徴である、城域を南北に分断し一城別郭の構造とする巨大な大堀切が設けられ、これらの堀は同時代の城郭としては全国屈指の規模を誇る。
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最後の井伊氏の時代も縄張が変わり門や石垣が整備され、現在の箕輪城の姿となった。この時代の門や石垣は、関ヶ原の戦い以前の関東の城郭では[[石垣山城]]を除き最大級のものだった。
特に二の丸から大堀切を挟んで土橋で連結された郭馬出には井伊氏時代に郭馬出西虎口門が築かれ、これは戦国時代の関東地方の城郭で規模が確認されている中では最大規模のものであり、平成28年(2016年)に木造で復元された。
家康が関東に入った当時の城造りを伝える城郭はほぼないため、箕輪城は徳川氏の城造りを伝える貴重な資料となっている。
このように箕輪城は井伊氏時代に完成したが、一部の縄張変更はあったものの、それまでの縄張が踏襲されている部分も多く、現在の箕輪城は長野氏に始まり武田氏、北条氏を経て井伊氏に至る改修の最終結果といえる。  

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