筒井城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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興福寺衆徒で大和四家の一つである筒井氏の、[[大和郡山城]]以前の居城。
大和から河内に至る交通の要衝に位置し、南北約100メートル、東西約200メートルの範囲を内郭とし、16世紀半ばには南北約450メートル、東西約600メートルにもおよぶ広範囲を外堀で囲い込んだ総構の構造となり、大和の平城では最大級の規模を誇る。
文献上の初見は永享元年(1429年)だが、発掘調査によって14世紀半ばには大規模な堀や土塁の遺構が発見され、この頃には本格的な軍事施設となっていたと考えられる。
城主である筒井氏は康永2年(1343年)が文献上の初見であり、筒井城の発掘調査の成果と一致している。

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14世紀半ばの筒井氏は、大和四家である越智氏や箸尾氏と大和の覇権を巡って抗争し、永享6年(1434年)に筒井順覚が越智氏の館を攻めたが敗死し、筒井城も越智氏の攻撃を受けた。
その後の筒井氏は順覚の長男・順弘と次男・成身院光宣が筒井城の帰属を巡って争う内紛状態となった。最終的に長享3年(1459年)に光宣の弟である順永が筒井城主となり、以後筒井氏の家督は順永の家系が継ぐこととなった。
筒井氏はその後も大和の他の豪族と抗争を続けたが、16世紀になると赤沢朝経や柳本賢治など大和国外の勢力が侵攻し、室町幕府の管領畠山氏の被官である木沢長政が信貴山城を拠点として実質的に大和を支配するようになった。
長政はやがて三好氏や細川氏と対立し、天文11年(1542年)に河内の太平寺で三好長慶らに敗れ討死した。
筒井順昭はこれに乗じて大和をほぼ制圧したが、天文19年(1550年)に28歳の若さで病死し、わずか2歳の順慶が跡を継いだ。すると永禄2年(1559年)に河内から松永久秀が大和に侵攻、順慶はこれに対応できず筒井城を落とされ大和から追放された。
その後の筒井城は、久秀の本城である[[多聞山城]]の支城として[[信貴山城]]や[[龍王山城]]などとともに重要拠点となったが、織田信長が大和へと進出したのに乗じて久秀と戦い、最終的に天正4年(1576年)に順慶が大和支配を任されることとなり、筒井城がその本拠となった。
その後天正8年(1580年)に信長は大和郡山城を除く大和の城を全て破却するよう命じ、筒井城は廃城となり筒井氏の本拠を大和郡山城に移された。

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|所在地|奈良県大和郡山市筒井町|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|平城|
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