笹下城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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読みは「ささげ」。現在の神奈川県横浜市にあった城。別名を篠箇(ささげ)城、佐々木城。北条氏の家臣・間宮氏の居城。
間宮氏は宇多源氏系佐々木氏の佐々木経方の子孫で近江篠箇郷の出身。鎌倉~南北朝時代に相模久良岐郡に下り、領地に故郷の名をつけた。
ただし北条家に仕えた時期が北条の相模進出の前か後かは明らかではない。北条進出前は鎌倉公方に仕えていたとも言う。
神奈川湊付近の国人衆だったのは確かで、永正7年(1510年)の[[権現山城]](青木城)の戦いでは間宮某(信冬または信盛)が奮戦した。
これが北条家の目に留まって取り立てられたといい、間宮信盛は両上杉氏への備えとして川崎堀ノ内に館を営んだ。
信盛の息子・間宮信元が天文年間(1532~54)の初めに笹下城を築いてこちらに移り、息子の康俊と二代にわたって居城とした。

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大永6年(1526年)には安房の里見勢が水軍を使って三浦半島・鎌倉に乱入。鶴岡八幡宮が焼かれ、[[玉縄城]]も攻撃を受ける。
対する北条側も警戒をいっそう強め、里見水軍の攻撃から付近の金沢・磯子・杉田等の湊を防衛するために笹下城が築かれた。
そのため本城の北側に出城の松本城を、海岸沿いの屏風ヶ浦・杉田・氷取沢にそれぞれ陣屋を置いて警戒態勢を構築した。
更に大船の[[玉縄城]]と神奈川の[[権現山城>青木城]]の中継点で、また北条氏綱の娘が嫁いでいた吉良頼康の[[蒔田城]]を警護する役割もあった。
間宮氏は玉縄衆として玉縄北条氏の下に編成され、各地の戦闘に参加した。間宮康俊の息子善十郎は三増峠の戦いで討ち死している。
間宮康俊は小田原征伐の緒戦[[山中城]]の戦いにおいて一柳直末を討ち取るなど奮戦したが敵わず、北条氏勝(玉縄北条家当主)を脱出させると73歳の老身ながら豊臣勢に斬り込み討ち死にした。

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北条氏が滅びると城は廃されたが間宮一族は徳川家に取り立てられた。その一人・間宮直元は本牧代官に任じられ、笹下城若宮曲輪に陣屋を置いた。
伊能忠敬に師事して蝦夷地・樺太測量探検を行い間宮海峡に名を残す幕府隠密・間宮林蔵は、常陸筑波に移った間宮氏分家の子孫である。
また分家の一つで杉田に中里陣屋を構えた杉田間宮氏の一族からは『解体新書』『蘭学事始』で知られる蘭学医の杉田玄白が出ている。

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地元の横浜市港南区のホームページでも『幻の城』とされるように、詳細な調査が入る前に周辺地域の宅地開発の波に飲まれた。
そのため残る遺構は少なく、城の曲輪の配置などもよくわかっていない。入り組んだ谷津地形を利用した「谷津構え」の城であったとされる。
北に日野川・東に笹下川・南に左右手川と、大岡川水系の本流・支流が城域の三方を囲み天然の水濠となっていた。
山上の寺院・成就院の周辺に土塁・空堀の跡があり、門前に城跡を伝えるレリーフがある。また山門は笹下陣屋の門を移築したものと伝わる。
また笹下中央公園も家臣の屋敷があった曲輪(または出城)の跡地。数年前までは空堀・犬走り等の遺構がさらに複数あったというが、団地の再開発に伴って一気に消滅したらしい。

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|所在地|神奈川県横浜市 港南区笹下/磯子区洋光台|
|現存状態|土塁、堀跡|
|城郭構造|平山城?|


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