稲付城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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JR赤羽駅の西側、台地の端を利用して築かれた平山城(崖端城)。読みは「いなつけ」「いねつけ」「いなづけ」など複数ある。
正確な築城年及び築城者は不明であるが、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が[[江戸城]]を築いたのちに[[岩槻城]]との中継点として築いたといわれる。
城跡は現在曹洞宗の自得山静勝寺の境内になっている。この寺は道灌の師にあたる僧が道灌を弔うため開いた寺と伝わる。
また赤羽駅付近を挟んで更に北側の赤羽台に現存している赤羽八幡神社を、道灌が文明年間に再興したとも伝わっている。
城自体が道灌自身の建造か否かについては不確定ではあるが、付近が太田氏とつながりの深い場所と考えられていた事は確かである。
別名は岩淵城と言い、城下には宿場町である岩淵宿と関所があり、交通の要所として栄えていた。岩槻方面へ街道が通じていた。

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道灌の孫太田資高は小田原北条家の二代目・北条氏綱と通じ、主君を江戸城から追放して北条家の江戸制圧に功を挙げた。
資高は氏綱の娘を妻に娶り、また岩淵・志村・平塚など江戸北方のいくつかの領地を所領として受け取り、稲付城を居城とした。
資高の息子である康資は父の領地を引き継ぎ、氏康の義理の娘(遠山綱景の娘で北条綱成の孫とされる)を妻とするなど遇されていた。
しかし恩賞に不満を持ち、または江戸城代の地位を望んで拒否され、同族の太田資正を頼って寝返りを画策するが露見して逃亡する。
稲付城は北条氏に接収され江戸城の北の備え、岩槻城や武蔵・下総方面の城との中継に用いられたが、北条氏が滅ぶと廃城となった。
明暦元(1655)年、太田康資の孫を名乗る浜松藩主太田資宗((逃亡後の康資の動向は不確かで、資宗の実際の血統については諸説がある))によって道灌を祀った堂舎が建立され、自得山静勝寺と名を改めて再建される。
以降江戸時代を通じて太田氏菩提寺として篤く扱われた。なお寺名の「静勝」は道灌の、山号の「自得」は道灌の父道真(資清)の法号に由来する。

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その後長く城の遺構・詳細は不明のままであったが、昭和62(1987)年に付近のマンション開発のための発掘調査が行われた。
この調査の際、永禄から天正年間(16世紀中後期)に普請された堀の跡が発見され、ここが稲付城址であることが確定した。
また静勝寺に伝わる江戸時代貞享四年の絵地図には城時代の堀を利用した道などが描かれており、在りし日の城の構造を推定できるという。
それによると城は台地の突端部分に築かれ、主郭と南の二の丸の間、二の丸と城外の間にそれぞれ空堀があったとされる。
また西側は亀が池という大池を天然の水濠としていた。『江戸名所図会』に静勝寺の「道灌手植えの松」と亀が池が名所として記載されている。
亀が池は明治の末頃にだんだんと埋め立てられ、現在では亀が池弁財天の境内に小さな池が名残として残るだけになっている。
異説として、近距離に豊島氏の旧拠[[平塚城]]があることから豊島氏によって築かれ太田氏に奪われたとするものもある。

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|所在地|東京都北区赤羽西|
|現存状態|主郭が寺院境内として残存|
|城郭構造|平山城(崖端城)|

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