神楽尾城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

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神楽尾城は、津山盆地の中央に位置する神楽尾山の山頂に築かれた山城である。
築城主は不明となっている。
本丸からは津山盆地全体から果ては日本原まで見渡すことができ、その展望の良さから「四周展望の城」とも呼ばれる。(現地の立て看板より)
城の歴史は古く、神楽尾の名前は太平記の頃から見ることが出来る。
その歴史の中で周辺の大勢力の手を行き来し、赤松氏、山名氏、尼子氏、毛利氏などの城となった。
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&color(White,Maroon){名前の由来};
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後の森家津山藩が編纂した「作陽誌」(西作誌)によると、神楽尾の名の起源は過去に山頂にあった天剣神社の伝説に由来するという。
曰く、
「遥か昔、山上に天剣神社あり。
 夜々神楽の響きが四方に聞こえる。
 これを求めても人はおらず。
 識者曰く、諸神来り集いてこれを奏でると。
 ついには山名となした。」
また、本城の東には古くは平家城という城があり、承平年間に宇都宮教貞が在城したことが同書に記載されている。
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&color(White,Maroon){歴史};
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神楽尾の名は太平記の35巻に初めて登場する。
当時は南北朝時代で、北朝(幕府)側で足利尊氏の死去、仁木義長の失脚、畠山国清の無断帰還などの混乱が起きていた頃である。
南朝側の武将山名時氏は、関東から幕府に呼ばれてきていた軍勢がすでに南朝軍を征伐し終わり都に戻ったと聞き、次は自分が攻められる番だろうと防戦の用意をしていた。
しかし、幕府側で上記のような混乱があり、さらには失脚した義長が南朝に寝返り再侵攻を始めたと聴き、その機に乗じて三千余騎を率いて因幡・美作へ勢力を分散配置した。
神楽尾城もその兵が分散された中に含まれていた。
その後、北朝側の赤松世貞、赤松則祐らが他の城とあわせて攻めたところ、まともに戦おうともせず、寝返って味方を攻撃したり、逃げ落ちて行方知らずになったともいう。
(神楽尾城の兵がどう振舞ったかは分からないが)
作陽誌によれば、その後も神楽尾城は山名氏と赤松氏の間を行き来し、定まった主がいない状態が続いたという。
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その後に大きく状態が変わるのは天文年間に入ってからである。
天文元年より、[[月山富田城]]主の尼子経久の美作侵攻が開始された。
作陽誌によれば、山名氏兼、山名小次郎が神楽尾城にいた頃に尼子晴久がこの地に攻め入り、原田播磨守を神楽尾攻城に遣わして陥落させたという。
その後、尼子氏が毛利氏に滅ぼされると、神楽尾城には毛利氏より大蔵甚兵衛尉と千場三郎左衛門が守りに遣わされた。
そのころには美作は大きく毛利、宇喜多、浦上の三勢力により占められていた。
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後に毛利氏と宇喜多氏が手を組み天正5年に浦上氏を滅ぼすと、織田氏による中国征伐が始まり、羽柴秀吉の圧力が加わり始めた。
そして宇喜多直家が秀吉に播磨を奪われたころに毛利氏と宇喜多氏は袂を分かち、両家の領地の境界付近にあった神楽尾城は対宇喜多氏の最前線となった。
この時、神楽尾城と吉井川を挟んで至近距離にある[[荒神山城]]には、宇喜多方の花房職秀が城主として入っていた。
職秀は戸川宿に間諜を放つことで神楽尾城の動きを察知し、夜襲を行い火を放ち、そしてとうとう城を陥落させた。
これが神楽尾城の最期となった。
(津山市史 第2巻(中世)より)
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&color(White,Maroon){城郭構造};
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神楽尾城は大きくは三つの曲輪から構成された大規模な山城である。
現在残る姿は主に大蔵甚兵衛尉と千場三郎左衛門の時代に構築されたものという。
山頂に本丸があり、東の尾根に二の丸、南の尾根に三の丸が位置する。
二の丸が少し離れて場所に位置し、他の郭との間を泥田堀、土橋、空堀などで仕切られている。
長さが200mほどあり、高い土塁が構築されている。
三の丸と本丸との間には武者溜と馬場がある。
三の丸は放射状の竪堀により防御を固めている。
本丸は東西約40m、南北約45m程の規模で、北と西の側面は切岸で断崖絶壁となっている。
勾配の緩い南西と南側には帯曲輪、腰曲輪を幾重にも築き防御を固めている。
そして本丸内の一段高い場所には、名の由来となった天剣神社が鎮座していたという。
(津山瓦版より)
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&color(White,Maroon){神楽尾城にまつわる文献へのリンク};
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 作陽誌:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183736
 太平記 35巻:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/878055/7?tocOpened=1
 津山市史 第2巻(中世):http://www.tsu-haku.jp/untitled54.html
 津山瓦版:http://www.e-tsuyama.com/kankou/check/kaguraojyoseki/
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|所在地|岡山県津山市上田邑|
|現存状態|本丸、二の丸、三の丸|
|城郭構造|山城|
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*コメント [#comment]
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