石神井城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報武蔵の名族・豊島氏の主城。現在の石神井(しゃくじい)公園の南側、三宝寺池から出る流れと石神井川に挟まれた台地上にあった。 続きをクリックで表示 本拠を石神井城に移した後、周囲に支城として練馬城、志村城、赤塚城などが築かれ、豊島氏の一族がそれぞれに入った。 本拠を石神井城に移した後、周囲に支城として練馬城、志村城、赤塚城などが築かれ、豊島氏の一族がそれぞれに入った。 所領に変動があったが有力勢力であることは変わりなく、石神井城内に三宝寺や氷川社を勧請してこれら宗教勢力の庇護にも当たった。 この時代は関東管領上杉氏に従ったが、足利成氏が古河城に拠って古河公方を名乗り、管領家と公方家の間で享徳の乱が起こる。 すると公方方に対抗する防衛線として、太田道真・道灌親子によって川越城、江戸城、稲付城*1などが築かれる。 江戸城や稲付城は豊島氏の勢力圏にモロに入り込んでおり、必然的に豊島氏は道灌に対して隔意を抱くようになる。 文明8(1476)年に管領上杉家の家臣長尾景春が反乱を起こすと当主・豊島勘解由左衛門尉泰経*2は景春に同調。石神井城と支城群で挙兵した。 豊島氏一族は一連の戦いで没落、石神井城は廃城となり、豊島氏によって勧請・建立された氷川社・三宝寺・道場寺などの寺社域となった。 現在は宅地化が進み、石神井公園となった一部を除き現存する遺構は少ない。その遺構も保護のため閉鎖されており、毎年10月末前後に数日だけ公開される。 現在は宅地化が進み、一部を除き現存する遺構は少ない。その遺構も保護のため閉鎖されており、毎年10月末前後に数日だけ公開される。 城は台地上にあったが、台地の端に築くのではなく、中ほどに堀を切って郭を連ねる形の連郭式だったとされる。 北は三宝寺池、南は石神井川、東は三宝寺池からの川と石神井川が合流する湿地帯*4で、残る西側に集中して防御設備が作られていた。 その郭のうちの一つから三宝寺池の側に張り出すようにして、多角形の主郭が築かれていた。
照姫伝説(クリックで表示) 照姫伝説豊島泰経には照姫という娘が有り、石神井城落城の際に父の後を追って三宝寺池に身を投げた。道灌は姫を哀れみ塚を作って供養した。 塚は姫を祀った姫塚と城主を祀った殿塚とが作られ、現在でも毎年春の命日のころに照姫をしのんで照姫まつりが開催されている。 豊島泰経には照姫という娘が有り、石神井城落城の際に父の後を追って三宝寺池に身を投げた。道灌は姫を哀れみ、姫を祀った姫塚と城主を祀った殿塚を作って供養した。 また泰経は先祖伝来の金の馬鎧と共に三宝寺池に沈み、塚の傍の樹に登ると池の中にその鎧が見えるという。 大枠は以上だが、これは明治時代の小説『照日松』(著・遅塚麗水)とそれを基にした観光キャンペーンの産物と言われる。(葛城明彦氏の説) 史実かどうかはさて置いて現在、毎年春には石神井公園周辺で「照姫祭り」が開催され、戦国時代を思わせる武者や殿・姫の行列がパレードする。 近隣に住むお祭り好きの殿は、遊びに行って武蔵国の歴史の一端に想いを馳せるのも良いだろう。 余談になるが、この一帯は漫画「ドラえもん」の舞台のモデルになったとも言われている。 コメント |
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