真壁城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報佐竹義重麾下の「鬼真壁」真壁氏幹の居城。真壁氏は常陸大掾氏の一族で、承安2年(1172年)に築城したとされる。 応永30年(1423年)、真壁慶幹が室町幕府と鎌倉府との対立で幕府側に与し、鎌倉府によって落城の憂き目に遭った。 佐竹義重麾下の「鬼真壁」真壁氏幹で知られる、約430年にわたって真壁郡を支配した真壁氏の本城。 真壁氏は常陸大掾氏の一族で、その初代で鎌倉幕府の御家人にもなった真壁長幹が承安2年(1172年)に築城したとされる。 真壁城は筑波山系の足尾山西麓の台地上、桜川沿いの平地に臨む微高地に築かれ、本丸を中心に四重の堀が巡らされ、城と城下は周囲の湿地帯によって守られていた。 南北朝時代の真壁氏は南朝方として奮戦し、真壁城は南朝方の「関東六城」の一つに数えられた。 続きをクリックで表示 応永30年(1423年)、真壁慶幹は室町幕府と鎌倉府との対立で幕府側に与し、鎌倉府によって落城の憂き目に遭った。 これによって惣領家が没落したが、庶子家の朝幹が再興して以降は家臣団が再編成され、城郭の整備も進められた。 この頃の真壁城は関東の戦乱に対応するために真壁氏が一族・家臣とともに結集していたことを表すような、方形居館が集合した姿だった。 朝幹は真壁城の維持を訴える置文を子孫に残しており、15世紀の領主が恒常的な要害を必要としたことの代表例といえる。 久幹の代では永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで小田城を奪取した際、佐竹義重と共同作戦をとるなど佐竹氏に接近し、その子氏幹は義重に仕え、小田原征伐後には真壁・筑波両郡に知行を与えられ名実ともに佐竹氏の家臣となった。 真壁久幹の代では永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで小田城を奪取した際、佐竹義重と共同作戦をとるなど佐竹氏に接近し、その子氏幹は義重に仕え、小田原征伐後には真壁・筑波両郡に知行を与えられ名実ともに佐竹氏の家臣となった。 この久幹・氏幹の時代が真壁氏の全盛期といえ、方形居館群は姿を消して本丸・二の丸を中心に東西に曲輪が配置され、城下町とともに整備されていった。 真壁氏以降の時代に改修された形跡が無いため、この時代の真壁城が最終的な姿だったと考えられる。 慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽に転封となると真壁氏もこれに従い、代わって入った浅野氏の時代に廃城となった。 真壁城は中世期平城の遺構が良好に残り、城と城下町が一体的に造られた様子がわかる貴重な事例となっている。 真壁城は平安時代から戦国時代末期に至るまで、一貫してこの地の領主だった真壁氏の城として重要であるとともに、高度な築城技術が見られる北関東屈指の中世期平城の遺構が良好に残り、城と城下町が一体的に造られた様子がわかる貴重な事例となっている。
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