相良城 のバックアップソース(No.4)
*現実の城情報 [#information]

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相良城の前身は平安時代末期の地頭相良氏(後の肥後[[人吉城]]主家)の館、戦国時代に武田氏によって築かれた相良古城、そして江戸時代に徳川家康が好きな鷹狩のため「相良御殿」を造営した地で、宝暦8年(1758)に側衆田沼意次が遠江国榛原郡内で5000石が加増されたのを機に同年11月相良1万石に就封した。意次はやがて側用人となり、2万石の大名となって相良に三重の天守閣を備える「竜宮城」にたとえられるほどの壮麗な平城を築いた。安永1年(1772)老中となり、あわせて3万石を領知、以後天明5年(1785)まで三度の加増により、遠江、駿河、三河、和泉、河内の国々に合計5万7000石を領する大名に昇進、いわゆる田沼時代を形成した。しかし1786年老中を罷免されると2万石が収公、翌87年にはさらに2万7000石が没収され、相続した意明は陸奥下村1万石に移封された。意明移封後の相良城は徹底的に破壊され廃城となったが、文政6年(1823)意正が陸奥から相良の旧地に戻り旧相良城二の丸跡に陣屋を構え、相良藩は零細ながら再興された。意正は若年寄、側用人などを歴任し、意留、意尊と続いた。慶応4年(1868)徳川宗家の処分に関連して、上総国小久保(千葉県富津市)に移封され、この地は静岡藩に編入された。
 意次時代の藩治を語るものは少ないが、東海道藤枝宿(静岡県藤枝市)の西から相良に通ずる通称田沼街道の開設、相良城下萩間川の河口付近の相良湊の一角に、仙台藩の肝煎でできたという仙台河岸の名が残るなど、田沼の権勢の片鱗を知ることができる。
 『相良藩 日本大百科全書』より引用

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|所在地|静岡県牧之原市相良|
|現存状態|土塁、石垣、御殿|
|城郭構造|平城|
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