白鹿城 のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報白鹿城(しらがじょう)は尼子十旗第一の城として知られる、宍道湖東端部の北岸標高150mの白鹿山に築かれた山城である。 白鹿城(しらがじょう)は尼子十旗第一の城として知られる、宍道湖東端部の北岸標高150メートルの白鹿山に築かれた山城である。 中世期において美保関は国内のみならず朝鮮半島なども含めた日本海交易の拠点の1つとなっており、とりわけ、出雲で鋳造された鉄を主要な交易品として栄えていた。 そのため、宍道湖から中海を通じて美保関を出入りする水運をおさえることが築城の大きな目的であったと見られる。 正確な築城年代は不明であるが、一説では、永禄年間に松田満久もしくは誠保が築いたという。 続きをクリックで表示 松田満久・誠保親子は永禄5年(1562年)の毛利氏の出雲侵攻に際し一旦降伏するものの、本城常光が毛利氏によって殺害されると尼子氏に帰参し、翌年には牛尾久信らとともに白鹿城に籠もった。 毛利方は月山富田城攻めの準備として北の尾根に付城として真山城を築くなど白鹿城を激しく攻め立てた上、後詰めの尼子倫久らが敗れたため降伏、松田満久は自刃、誠保は隠岐へ逃亡した。 しかし、北の尾根に付城として真山城を築くなど入念に準備を行った毛利方に激しく攻め立てられた上、頼みであった後詰めの尼子倫久らも敗れたため降伏を余儀なくされ、松田満久は自刃、誠保は隠岐へ逃亡した。 吉川元春はそのまま真山城を拠点としたため、白鹿城は廃城となった。 現在では麓まで住宅地が広がりつつあるが、山中の遺構は郭や土塁、また毛利氏が攻撃の際に水の手を切るために掘ったとされる井戸跡などが残されている。
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