白石城 のバックアップソース(No.5)
*現実の城情報 [#information]

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白石城(しろいしじょう)は宮城県白石市(陸奥国刈田郡)にあった城で、伊達政宗の側近片倉景綱の居城として知られる。
奥羽山脈と阿武隈高地に囲まれた白石盆地中央やや西部を南北にはしる独立丘陵の北端、盆地を南北に分断する白石川南岸の標高76メートルの城山に築かれた平山城である。
平安期に藤原北家秀郷流を称する藤原経元(刈田経元)が築いた城が始まりとされ、刈田氏はのちに白石氏を名乗った。
戦国期、白石盆地は白石氏が伊達家臣として治め、伊達輝宗・政宗の二代に渡って仕えた忠臣・白石宗実を出したが、この時代の拠点については不明瞭である。
奥州仕置によって伊達氏が刈田郡を失い、かわりに蒲生氏郷が入ると、その家臣蒲生郷成によって本格的な築城が行われ、これが現在の白石城の基盤となっている。
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その後上杉氏を経て、関ヶ原の戦い後再度伊達氏が刈田郡を領有することになると、重臣片倉景綱が入り、その後代々片倉氏が城主を務め、歴代の片倉氏当主は明治維新に至る第13代まで初代景綱にならった「小十郎」を名乗った。
島津氏の「又三郎」、相馬氏の「孫次郎」ですら、このように長く続いてはいない。
景綱は白石城の大改修を行い、本丸と二の丸を中心に中の丸、南の丸、巽曲輪、西曲輪、沼の丸、厩曲輪、帯曲輪が配置され、これらの周囲に館堀川を巡らせて天然の水堀とした。
館堀川の外側には三の丸と外曲輪が配置して水堀と空堀で囲み、さらに外側に城下町が広がった。
最高所に設けられた本丸は高さ約9メートルの石垣で囲まれ、北西隅に建てられた三重櫓は「大櫓」よ呼ばれ、実質的な天守となった。
白石城は幕府による一国一城令後も城拝領によって例外的に城としての所有を認められ、明治維新まで存続した。
幕末の戊辰戦争の際には白石城で白石列藩会議が開かれて奥羽越列藩同盟結成のきっかけとなり、白石城は新政府軍に占領されて[[盛岡藩>盛岡城]]の支配下に置かれたのち、明治8年(1875年)に廃城となった。
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明治期に入ると廃城令によって破却され更地となっていたが、1990年台に本丸天守にあたる三階櫓や一ノ門、二ノ門などが木造建築で復元され、公園として整備され現在に至る。
平成23年(2011年)の東日本大震災では三階櫓を中心に甚大な被害を受け、国史跡でないことから修繕費用の財源が危ぶまれたものの、全国から集まった募金や寄付金の助けなどもあり修繕が行われた。
平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|宮城県|
|現存状態|益岡公園、移築門、移築蔵、石垣|
|城郭構造|梯郭式平山城|
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