白石城(しろいしじょう)は宮城県白石市(陸奥国刈田郡)にあった城で、伊達政宗の側近片倉景綱の居城として知られる。 白石盆地中央やや西部を南北にはしる独立丘陵の北端、標高76メートルの城山に築かれた平山城である。 平安期に藤原北家秀郷流を称する藤原経元(刈田経元)が築いた城が始まりとされ、刈田氏はのちに白石氏を名乗った。 戦国期、白石盆地は白石氏が伊達家臣として治めていたが、この時代の拠点については不明瞭である。 奥州仕置によって伊達氏が刈田郡を失い、かわりに蒲生氏郷が入ると、その家臣蒲生郷成によって本格的な築城が行われ、これが現在の白石城の基盤となっている。
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その後上杉氏を経て、関ヶ原後再度伊達氏が刈田郡を領有することになると、重臣片倉景綱が入り、その後代々片倉氏が城主を務めた。 景綱は白石城の大改修を行い、本丸と二の丸を中心に中の丸、南の丸、巽曲輪、西曲輪、沼の丸、厩曲輪、帯曲輪が配置され、これらの周囲に館堀川を巡らせて天然の水堀とした。 館堀川の外側には三の丸と外曲輪が配置して水堀と空堀で囲み、さらに外側に城下町が広がった。 白石城は幕府による一国一城令後も城拝領によって例外的に城としての所有を認められ、明治維新まで存続した。
明治期に入ると廃城令によって破却され更地となっていたが、1990年台に本丸天守にあたる三階櫓や一ノ門、二ノ門などが木造建築で復元され、公園として整備され現在に至る。 東日本大震災では三階櫓を中心に甚大な被害を受けたが、修繕にこぎつけている。
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