白石城 のバックアップ差分(No.10)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

白石城(しろいしじょう)は宮城県白石市(陸奥国刈田郡)にあった城で、伊達政宗の側近片倉景綱の居城として知られる。
奥羽山脈と阿武隈高地に囲まれた白石盆地中央やや西部を南北にはしる独立丘陵の北端、盆地を南北に分断する白石川南岸の標高76メートルの城山に築かれた平山城である。
平安期に藤原北家秀郷流を称する藤原経元(刈田経元)が築いた城が始まりとされ、刈田氏はのちに白石氏を名乗った。
戦国期、白石盆地は白石氏が伊達家臣として治め、伊達輝宗・政宗の二代に渡って仕えた忠臣・白石宗実を出したが、この時代の拠点については不明瞭である。宗実は天正14年(1586年)に宮森城に移っており、代わって屋代景頼が白石城に入ったとされる。
奥州仕置によって伊達氏が刈田郡を失い、かわりに蒲生氏郷が入ると、その家臣蒲生郷成によって本格的な築城が行われ、これが現在の白石城の基盤となっている。蒲生氏によって上方の築城技術が導入された白石城は、本城である[[会津若松城]]や支城の[[二本松城]]や[[三春城]]などと同じく織豊系城郭として改修された。
#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

蒲生氏郷の死後、その後を継いだ秀行が慶長3年(1598年)に[[宇都宮城]]に移ると会津には上杉景勝が入り、景勝は甘糟景継を白石城に入れて改修を行った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際に白石城は上杉氏と伊達氏との攻防戦の舞台となり、『貞山公治家記録』によると「本丸」「二の丸」「中の丸」「厩郭」「帯郭」「三の丸」「外郭」などの曲輪があったとされ、これらは江戸時代の白石城の構造とほぼ一致していることから、上杉氏時代には白石城の原型がほぼ完成していたと考えられる。
#br
関ヶ原の戦い後再度伊達氏が刈田郡を領有することになると、重臣片倉景綱が入り、その後代々片倉氏が城主を務め、歴代の片倉氏当主は明治維新に至る第13代まで初代景綱にならった「小十郎」を名乗った。
元々日本では先代の名を受け継ぐ襲名制は広く浸透した文化であるが、長期間同じ地を治め続けたことで知られる[[島津氏>鹿児島城]]の「又三郎」、[[相馬氏>相馬中村城]]の「孫次郎」ですら、ここまで長く通称の継承をし続けてはいない。
景綱は白石城の大改修を行い、本丸と二の丸を中心に中の丸、南の丸、巽曲輪、西曲輪、沼の丸、厩曲輪、帯曲輪が配置され、これらの周囲に館堀川を巡らせて天然の水堀とした。館堀川の外側には三の丸と外曲輪が配置して水堀と空堀で囲み、さらに外側に城下町が広がった。
最高所に設けられた本丸は高さ約9メートルの石垣で囲まれ、北西隅に建てられた三重櫓は「大櫓」よ呼ばれ、実質的な天守となった。
白石城は幕府による一国一城令後も城拝領によって例外的に城としての所有を認められ、明治維新まで存続した。天和3年(1683年)に描かれた「天和絵図」では、城の南側にあった埋門が半円形の土塁と三日月堀を持つ丸馬出に改修されており、白石城の城としての格式を内外に示すという伊達氏の意向によって造られたと考えられている。
幕末の戊辰戦争の際には白石城で白石列藩会議が開かれて奥羽越列藩同盟結成のきっかけとなり、白石城は新政府軍に占領されて[[盛岡藩>盛岡城]]の支配下に置かれたのち、明治8年(1875年)に廃城となった。
#br
明治期に入ると廃城令によって破却され更地となっていたが、1990年台に本丸天守にあたる三階櫓や一ノ門、二ノ門などが木造建築で復元され、公園として整備され現在に至る。
平成23年(2011年)の東日本大震災では三階櫓を中心に甚大な被害を受け、国史跡でないことから修繕費用の財源が危ぶまれたものの、全国から集まった募金や寄付金の助けなどもあり修繕が行われた。
平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。
#br
白石市の名物に白石温麺(しろいしうーめん)がある。10cm程度と短めで素麺と冷麦の中間くらいの太さの麺で、胃腸の弱いの父のために油を使わない麺が作られたとされ、それを献上され気に入った片倉小十郎から温麺という名を賜ったという。
#br
戊辰戦争に敗れ、白石城を没収されて領地をわずか数百分の一に縮小された片倉氏は開拓のために北海道胆振国幌別郡(現・登別市)を一時領有する。この縁から白石市と登別市は姉妹都市として交流しており、登別市片倉町の登別市郷土資料館は白石城を模した外観で、片倉氏による開拓の歴史に関する展示もされている。また家臣の一部は石狩平野に入植し、入植地を故郷の名を取って白石村と名付け、現在は札幌市と合併して同市の白石区となっている。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):100|200|c
|所在地|宮城県白石市|
|現存状態|益岡公園、移築門、移築蔵、石垣|
|城郭構造|梯郭式平山城|
*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS