三峡は瞿塘峡の夔門(きもん)の上流北岸に位置する小山に建てられた城郭。 現在の白帝城は、三峡ダムの完成により川の水面が上がり、長江の中に浮かぶ島となっている。 新末、後漢初に巴蜀にあった地方王朝成家の白帝公孫述により建てられたことが由来で白帝城と呼ばれている。 前面を長江、他三方向は高い崖に面し、三峡の入り口を抑える要衝となっていた。 その姿は夔門と併せて三峡の景勝地として名高く、李白や杜甫など数多の詩人がこの城の事を詩に残している。 また、この城とそのたたずまいが似ているとして、愛知県の犬山城も白帝城と呼ばれている。
夷陵の戦い(クリックで表示)
白帝城にまつわる逸話で、三国時代の222年に劉備率いる蜀漢と孫権率いる呉の間で起きた夷陵の戦いがよく知られている。 この戦いに先立ち、劉備勢は樊城の戦いで荊南の地と関羽を失っていた。 夷陵の戦いは失った荊南の地の奪還と、それに加えて関羽の弔い合戦という意味合いも含んでいた。 益州にて蜀漢を建てた劉備は221年に呉に向けて親征軍を出し、対する呉は樊城の戦いで頭角を現した陸遜に大都督を任せ防衛を指示した。 三峡沿いに進軍した蜀漢軍は、緒戦を優位に進め夷陵までを抑え、222年には劉備自身も夷陵まで出て指揮を執った。 しかし、陸遜に蜀漢の陣が火計に弱いことを見抜かれ、伸び切った40もの陣地を一斉に焼き討ちされ、そのまま蜀漢軍は瓦解した。 蜀漢軍は呉軍に阻まれながらも三峡を遡り、なんとか劉備は白帝城に逃げ込んだ。 白帝城にも呉軍が迫ったが、戦況を聞きつけた趙雲の軍や、演義では諸葛亮の仕掛けた石兵八陣に阻まれここで立ち止まった。 劉備はこの戦いで目的だった荊南の奪回を果たせなかっただけでなく、多くの有能な将や文官、そして数万の兵を失ってしまった。 劉備は成都には帰らず、白帝城に永安宮を造営してこの地に留まった。 そしてそのまま病床に臥せってしまい、翌年には諸葛亮に後のことを託してこの地で没した。
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