畑谷城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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「北の関ヶ原」慶長出羽合戦において最初の激戦地となった城で、[[山形城]]の最上氏と[[米沢城]]の伊達氏や上杉氏との境目の城にあたる。
最上氏では元亀元年(1570年)に最上義守が嫡男の義光に家督を譲ったが、義守が次男の義時に家督を継がせようとしていたこともあって義光との対立は続き、義守の娘婿である伊達輝宗が義守を支援するために出兵するなど、不穏な状況が続いた。
天正2年(1574年)に義守・義光父子の対立は再び表面化して天正最上の乱が勃発し、輝宗は義守の要請を受けて出兵し、畑谷口から義光を攻撃した。戦いは義光が勝利し、最上氏の実権を握った義光は反義光派の国人らを討伐し、伊達氏の影響力を排除して独立した。
天正12年(1584年)以降、義光は急速に領国を拡大し、領国の境界に位置する境目の城を新築あるいは増改築し、本城である山形城を中心とする支城網を作り上げた。そのなかでも伊達氏や上杉氏との境界に位置する畑谷城は常に緊張状態に置かれることとなった。

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慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦において、上杉氏は直江兼続を総大将とする約2万の軍勢が9月8日から最上領へと進軍した。上杉軍は9月11日に畑谷城に集結し、12日から攻城戦を開始し、畑谷城では最上家臣の江口五兵衛光清以下約500人が籠城したが、激戦の末13日に落城した。この時兼続は「城主江口五兵衛父子共、頸五百余討取候」と秋山伊賀守宛ての書状に記している。
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畑谷城は村山地方と置賜地方の境界に築かれ、北から西にかけては山形から山辺・簗沢・摂待を経て置賜地方へ、南には山形から門伝・摂待・中山を経てこちらも置賜地方へ通じる街道が通り、街道を監視する役割も担っていた。
城域は大きく3つに分かれ、主郭は畑谷城が立地する館山の山頂部に置かれ、東南を除いてめぐる空堀のうち西側と東北端は二重空堀となっている。
東側には館山と尖り森との間の山麓部・平坦部に設けられた階段状の曲輪があり、両端には竪堀が設けられている。尖り森は館山より標高が高く、畑谷城の平坦部を見渡されないよう高く大規模な土塁と空堀が築かれ、南端部は竪堀となって尖り森の中腹へと続いている。
主郭の西側は内城と呼ばれる居館があったとされる部分で、二重の空堀がめぐり一部は三重堀となっている。

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|所在地|山形県山辺町畑谷|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|

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