芸予諸島に点在する海城のなかでも代表的な城の一つで、近世城郭として改修された稀有な海城でもある。 天智天皇の時代、、唐の侵攻に備えて越智氏によって築かれた日本最古の水軍城とされるが、現在でも古代の遺構は確認されていない。 文献上で最初に確認できるのは天文10年(1541年)で、城主としては能島村上氏系の今岡氏や、来島村上氏の宿老・村上吉継が知られている。 甘崎城は伊予大三島と砂州でつながる陸繋島である古城島に築かれ、瓢箪形の島が大きく3つの曲輪で城郭化されていた。 芸予諸島域は古来より海上交通の要衝であり、甘崎城は瀬戸内海の中央を通るルートを押さえる城であったことから、戦国時代には能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏の三島村上氏が支配していた。
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甘崎城は芸予諸島に多数あった海城のなかでも、近世城郭化された点で他の海城とは大きく異なっている。 近世城郭へと改修したのは築城の名手として知られる藤堂高虎で、高虎の公的記録である『高山公実録』などによると、関ヶ原の戦い後に伊予に入った高虎が安芸の福島正則への警戒のために、境目の城として甘崎城を用いたという。 高虎時代の甘崎城は「浅野文庫蔵諸国古城之図」「浅野文庫蔵諸国当城之図」に見られるような総石垣の城で、3つの曲輪のうち南北の曲輪には食違虎口が設けられていた。 石垣は北側の曲輪(本丸)周辺では高さ3.6メートル、東海岸では6.4メートルと記されており、現在は山上の石垣はほぼ失われているものの、良好な状態で残っている南端の石垣は満潮時には水没し干潮時に姿を現すという、珍しいものとなっている。 元禄4年(1691年)にこの光景を見たドイツ人医師ケンペルは『日本誌』に「海中よりそびゆる堡塁あり」と記している。
高虎は従弟の良勝を甘崎城に入れていたが、慶長13年(1608年)に伊勢・伊賀へと転封となり、伊予には高虎の養子の高吉が残ったが、この時に甘崎城は廃城になったとされる。
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