猿喰城 のバックアップソース(No.1)
''猿喰城(さるはみじょう)''
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門司区のほぼ中央、大字猿喰・大字柳・大字中畑の字境、標高210メートル城山に陣取っている。
現在は通信各社の通信施設が乱立し、南北朝時代の面影はやや霞んでいる。猿喰から東に周防灘、西に響灘が一望できる。
北側約600メートルの古城山には門司城があり、別名門司関城という。海を挟んだ向こう側は下関市である。
貞治2年(1363年)冬、南朝方の下総若狭守らが立て籠る猿喰城に北朝方が攻めかかり、双方多くの死傷者を出した。
記録には親頼以下一族郎党73名、城を枕にことごとく討ち死にしたといわれる。
門司地域は幾度にも北朝方と南朝方で激戦を繰り広げている。それを顕著に表すのが猿喰城を拠点とする南朝方と門司関城を拠点とする北朝家方の対立である。
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【猿喰城の縄張り】
城山頂一帯に6つの郭をつくり、それを切岸(急な斜面)と堀切で防備している。郭は主郭の北側に腰郭、主郭の西側尾根筋には階段状の小郭が設けられている。
全長約100メートル、幅約30メートルの小規模な砦である。また、一部の学者からは猿喰城が柳城であるという説が浮上している。北部九州を中心とする城郭研究者である中村修身氏は猿喰城と柳城を同一の城と主張する。
同じ城を別の名前で呼ぶことはよくあることで、宮方氏が立て籠る柳城攻め後、足利義詮(あしかがよしあきら)が小野弾正左衛門尉(おのだんじょうざえもんのじょう)に宛てた感謝状や、猿喰城が三つの字を境に坐することからである。
なお、感謝状が送られたのは貞治3年(1364年)2月17日のことであった。
――――参考・引用『北九州・京築・田川の城◎戦国史を歩く』(著:中村修身 出版:花乱社)
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かえして、同じく北九州市出身の廣崎篤夫氏は著書『福岡県の城』にて猿喰城と柳城を別の城として紹介している。場所が近しいゆえに真実がどうであったかを導き出すのは難しいと言える。
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【門司地域における合戦】
貞治3年に出された九州探題・斯波氏経(しばうじつね)配下である武藤美作守(むとうみさくのかみ)の了承の証判がある門司左近将監親尚軍忠状には南北朝期の門司地域における合戦の様子を概ね次のように記している。
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貞治元年、親尚手の者は規矩郡に菊池肥後守武光手の者など数百人城を構えて立て籠ったとき、それらの城を攻撃しもうすぐ攻略するところであったが、武家方であった周防国大内弘世(ひろよ)が突然宮方として関門海峡を渡って攻めかかってきた。
親尚は祖先伝来の門司を離れて筑前国橘(=立花。福岡市東区、新宮町)・香椎の両陣から加納(宮若市金生)などの合戦に加わり軍忠に励んだ。
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貞治二年七月十九日午前零時、門司関城に取り上り合戦の準備に取り掛かったところ、書房備が整わない同月二十一日に、菊池氏の代官・鞍懸中務丞(くらかけなかつかさのじょう)や下総若狭守親頼、同庶子らが攻め寄せてきた。散々合戦になり、攻めてきた宮方は数人が負傷し引き退いた。親尚は一族の下総親資とともに門司関城に踏みとどまっていたところ、今度は弘世が武家方として関門海峡を渡って赤坂(小倉北区)に陣取ったので、親頼、同庶子ら宮方が立て籠もる猿喰城に攻撃を開始した。
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ところが、思いもよらず弘世は赤坂より陣を退き上げ、そのまま長門へと帰ってしまった。しかたなく宗像御大将、少弐冬資(しょうにふゆすけ)らも赤間関へと退却した。にも拘らず親尚はなおも門司関城に踏みとどまっていた。
そこへ弘世より門司関城を借り受けたいとの申し入れがあり、御大将らに相談した結果、籠城の人数にも限りがあり、忠勤の認定は変わることがないので貸すべし、ということになった。弘世は門司関城に城代を置いたが菊池武光の攻撃によって落城した。
親尚は門司関城落城の責任はすべて弘世にあると主張している。この時こそ宮方がもっとも勢力を張ったときである。
室町幕府は、今川了俊を九州に派遣して宮力の鎮圧に力を注いだ。足利直冬も幕府に屈服したため、将軍足利義満の代には九州も幕府の支配するところとなった。
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|所在地|福岡県北九州市門司区猿喰 他(城山山頂)|
|現存状態|石碑、石祠|
|城郭構造|山城|
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