犬田城(いぬたじょう)は大阪府枚方市(河内国交野郡)にあった平城。 畠山義就と畠山政長は応仁の乱をきっかけに争っていたが、文明15年(1483年)8月には義就は淀川堤防を決壊させて河内十七箇所を水攻めした。 永禄2年(1559年)の六角義賢による肥田城の水攻めを日本史上初の水攻めとする向きもあるが、上記の通り誤りである。 いずれにせよ十七箇所が孤立すると、政長は現在の枚方市印田町にあった犬田という集落のあたりにあったとされる犬田城に移り抵抗したが敗れ、南山城も義就に制圧された。 しかし、南山城を守備した義就の家臣・斎藤彦次郎が幕府方に寝返ると戦況は膠着し、度重なる兵役に苦しんだ山城国人は決起して両畠山軍を撤退させ、山城国は守護不在となり国人衆が治める前代未聞の事態となった。(山城国一揆) 一連の争いの中で最も大規模な戦闘が起きたのは犬田城であり、以後大規模な戦闘はなかったが、明応の政変により畿内の混乱は続いた。
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