牛尾城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報牛尾城は出雲中央部を南北に走る山塊群の西側にある標高302mの三笠山に築かれた山城で、尼子十旗の一つである。築かれた山の名から三笠城とも呼ばれる。 牛尾城は出雲中央部を南北に走る山塊群の西側にある標高302メートルの三笠山に築かれた山城で、尼子十旗の一つである。築かれた山の名から三笠城とも呼ばれる。 急峻や山の斜面を利用し、尾根筋には郭と土塁で防御を固めている。また、北東に伸びる尾根筋は八雲山を経て熊野城のある要害山に繋がっており、両城は連携していたという説がある。 牛尾城は諏訪神党中澤氏の一族で鎌倉時代に当地を所領とし、出雲中部の有力国人となった牛尾氏によって応仁の乱後に築かれたとされる。 牛尾城は諏訪神党中澤氏の一族で鎌倉期に当地を所領とし、出雲中部の有力国人となった牛尾氏によって応仁の乱後に築かれたとされる。 続きをクリックで表示 尼子氏が勢力を伸ばすと当初は牛尾氏は京極氏とともにこれに対抗するも、最終的に尼子氏の家臣となり、牛尾幸清は尼子経久・晴久・義久の三代にわたって仕え重臣として活躍した。 尼子氏の勢力が衰え、永禄6年(1563年)以降毛利氏が本格的に出雲に侵攻すると、牛尾幸信は嫡男久信とともに月山富田城に入った。 牛尾城は残る一族が守っていたものとされるが、月山富田城開城までのいずれかのタイミングで毛利氏に降ったものと考えられる。 その後、永禄12年(1569年)に尼子勝久らが出雲に上陸すると、牛尾幸清三男幸信はこれに傘下し牛尾城を奪取した。 尼子氏の勢力が衰え、永禄6年(1563年)以降毛利氏が本格的に出雲に侵攻すると、牛尾幸清は嫡男久信とともに月山富田城に入った。 牛尾城は残る一族が守っていたものと見られるが、月山富田城開城までのいずれかのタイミングで毛利氏に降ったものと考えられる。 永禄12年(1569年)に尼子勝久らが出雲に上陸すると、牛尾幸清三男幸信はこれに荷担し牛尾城を奪取した。 しかし、翌年には尼子再興軍は毛利軍の前に壊滅的打撃を受け、牛尾城も毛利軍の攻勢にさらされ落城、牛尾幸信は自害した。 これ以降史料で確認できないことから、このまま廃城になったと考えられている。 月山富田城に入っていた幸清・久信は兵糧攻めに際し毛利氏に降伏し、そのまま毛利家臣として仕えた。 月山富田城に入っていた幸清・久信は兵糧攻めに際し毛利氏に降伏し、そのまま毛利家臣として仕えた。 城跡は山中となっているが、門石や石垣、郭を構成する平地群などが今でも残されている。
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