燧ヶ城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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燧ヶ城は火打城、燧城とも書かれる、古代の北陸街道をおさえるために築かれた山城である。
日野川と鹿蒜川の合流点に位置する今庄の集落に向かって東から突き出した山塊の先端部を利用して築かれた城であり、山頂の主郭を中心に東西に細長い連郭式山城となっている。
現在の南越前町今庄地区は古くは律令制における北国街道の鹿蒜駅が置かれていた地であり、その後江戸時代の北国街道時代も宿場町が形成されるなど、古代から近江から越前へ向かう経路上の要所として栄えていた。
燧ヶ城はその街道のおさえとして築かれたと考えられており、戦国時代まで越前の要所をおさえる城として争奪が行われたと考えられている。
築城時期は平安時代末期にまで遡れるとされ、「源平盛衰記」では「北陸道第一の城郭」と評され、治承・寿永の乱の際に北陸に進軍してきた平氏政権の軍を迎え撃つために木曾義仲が築かさせたという。
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平清盛が後白河法皇の院政を停止したことを端緒として治承・寿永の乱が勃発し、以仁王の蜂起や近江源氏の蜂起など、平氏政権とそれに対立した諸勢力との武力衝突が起こり始めた。
この頃の越前では白山事件の余波によって、在地の豪族達の間では反平氏政権の気運が非常に高く、能登や加賀などの国人達とともに反乱を起こし、鎮圧のために出陣してきた平通盛を撃破し敦賀へと追い返した。
養和の大飢饉の影響で平氏側はこれらの勢力に対して手を打てない状況が続いたが、1183(寿永2)年になると本格的に北陸の反乱鎮圧に動き出し、4月に平維盛を大将とする討伐軍が越前に入った。
越前などの国人衆はこれを火打城で迎え撃ち、川をせき止め人工湖を作り、平氏方はこれに遮られ中々攻め入ることができなかった。
しかし、籠城方の平泉寺長吏斉明が平氏方に内通したために落城し、これによって平氏政権方は越前の平定に成功、その後加賀へ進出し、木曾義仲を相手取った盤若野の戦い、倶利伽羅峠の戦いへと進んでいくこととなる。
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その後も南北朝時代には今庄入道浄慶が城主であり、足利方として、新田義貞についた杣山城主瓜生保と対峙したと記録されている。
戦国時代にも、越前一向一揆に対して織田信長が鎮圧に動いた際に一向一揆勢の下間頼照が在城したものの、背後を脅かされたため退却したといい、賤ヶ岳の戦いの際には柴田勝家自ら在城している。
明確な廃城時期ははっきりしていない。
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現在も主郭に付随する堀切が明瞭に確認できるなど、遺構がよく残っており、基本的にはシンプルな連郭式山城である一方、本丸や虎口には石垣が見られるなど、長い歴史のなかで修築が行われていったことがうかがえる。

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|所在地|福井県南条郡南越前町今庄|
|現存状態|石垣、堀切|
|城郭構造|連郭式山城|
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