清武城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報宮崎県宮崎市清武町。 続きをクリックで表示 この城の前身は、南北朝時代に築かれたとされる清瀧城と呼ばれていた城である。 天授5年(1379年)門川伊東氏の伊東祐行が清瀧城を改修し、名を清武城に改める。 文明17年(1485年)飫肥城攻めの後詰として伊東祐堯が入城し、伊東四十八城の一つとなる。城主は長倉伴九郎、上別府宮内少輔などが務めた。 天正5年(1577年)伊東氏没落後は、島津氏武将・伊集院久宣が入城した。 天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐後、伊東祐兵が飫肥・曾井・清武を宛がわれ、稲津掃部助重政が清武城主となる。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際、稲津掃部助は東軍方として西軍高橋元種の持城である宮崎城を攻略したが、直前に高橋氏が東軍に寝返っていたため、その責を負い孤立する。 慶長7年(1602年)稲津掃部助は、藩主伊東祐慶に清武城を攻められ誅殺された(稲津の乱)。その後、河崎駿河守が城主となった。 元和元年(1615年)一国一城令によって清武城は廃城になった。 寛永14年(1637年)清武には改めて清武地頭が置かれ、駿河守の次男河崎大學助祐信が就任する。 昭和45年(1970年)宮崎市指定史跡となった。 この城の前身は、南北朝時代に築かれたとされる清瀧城であり、天授5年(1379年)に門川伊東氏の伊東祐行が城を改修し、名を清武城に改めたとされる。 文明17年(1485年)に飫肥城攻めの後詰として、11代当主・伊東祐堯が入城し、伊東四十八城の一つとなる。 城主には、家臣の長倉伴九郎や上別府宮内少輔などが務め、天正5年(1577年)の伊東氏没落後は、島津氏家臣の伊集院久宣が城主を務めていた。 天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐後、18代当主・伊東祐兵が飫肥、曽井、清武を宛がわれたため、家臣の稲津重政が清武城主となる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、重政は東軍方として西軍・高橋元種の宮崎城を攻略する。 しかし、直前に高橋氏が東軍に寝返っていたため、重政はその責を負わされることとなり、その結果、慶長7年(1602年)に飫肥藩主・伊東祐慶により清武城は攻め込まれ、重政は誅殺されてしまう。 その後、家臣の河崎駿河守が城主となり、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城になるまで清武城は存続した。
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