浪岡城 のバックアップ差分(No.10)

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*現実の城情報 [#information]

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村上源氏中院家庶流である北畠氏の一族で、陸奥国司・北畠顕家の子孫とされる浪岡北畠氏の居城。
浪岡は9~17世紀にわたって地域の政治的中心であり、当初浪岡北畠氏は源常館を居館とし、浪岡城は1460年代に北畠顕義が浪岡川や正平津川などの流れに挟まれた台地上に築いたという。浪岡の地は現在の青森・弘前・黒石・五所川原市のほぼ中間に位置し、古来より交通の要衝として発展していた。
城は北東から傾斜する扇状地形を活用し、南の河川氾濫原を自然の堀として利用し丘陵上の平場を水堀と中土塁で区画して防御機能を高めた。城を構成する内館・西館・北館・猿楽館・検校館・東館・無名の曲輪・新館という八つの曲輪は、いずれも単独で居館として機能できるほどの規模だった。
それぞれの曲輪は二重から三重の堀で区切られて直接はつながっておらず、独立した八つの曲輪が複合した城郭といえ、この構造は領主と家臣という縦のつながりよりも、一族間の横のつながりを反映しており、東北地方の地域性を表している。
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浪岡北畠氏は京の公家である山科言継の日記『言継卿記』や叙爵者記録である『歴代土代』の中に浪岡城主「具永(顕義の孫)・具統・具運」の名があることから、同じく「具」の字を用いる伊勢北畠氏と関係があったと考えられている。
その最盛期はこの言継と交流のあった天文年間とされ、『言継卿記』によると浪岡北畠氏は官位を得るための工作として当地の海産物である「昆布やイリコ」などを頻繁に言継に贈っており、京とは密接な連絡を保っていた。
また浪岡北畠氏は津軽地方の豪族のなかでは唯一、公家の血を引く名門であったことから「浪岡御所」の敬称で呼ばれ、傍系の具信系統は「川原御所」と称され津軽地方に大勢力を築いた。現在も城跡の小字に「五所」、そして川原館の所在地には「川原町」の地名が残っている。
しかし具永の孫・具運の代の永禄5年(1562年)に川原御所の乱と呼ばれる一族間の内乱が起こり、浪岡北畠氏家臣団は分裂し浪岡北畠氏は衰退していった。
この内乱で具運は叔父の具信に殺害され、その子・顕村は勢力維持に努めたものの、天正6年(1578年)に津軽統一を進める大浦為信に攻撃され、浪岡城は落城した。
浪岡北畠氏の最後の当主となった顕村はこの時自害したとも、[[脇本城]]の安東愛季を頼って落ち延びたともいう。
その後の浪岡城の動向は不明だが、為信が油川城攻めを行った際に浪岡城を拠点としたとされ、大浦氏によって一定期間管理されてたのち、廃城となったと考えられる。
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浪岡城は勝山館や[[志苔館]]、[[根城]]と並び北日本の代表的な中世城郭として知られ、昭和15年(1940年)年2月10日に青森県内で初めて国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。
浪岡城は[[勝山館]]や[[志苔館]]、[[根城]]と並び北日本の代表的な中世城郭として知られ、昭和15年(1940年)年2月10日に青森県内で初めて国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|青森県青森市浪岡|
|現存状態|曲輪、空堀、土塁など|
|城郭構造|群郭式平城|
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