河越館 のバックアップ差分(No.2)

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埼玉県川越市上戸(うわど)に位置する城館。
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【城郭構造】
入間川西側の河畔に建つ、城としては単純なおよそ2町(218m)四方の城地を持つ単郭式。在地豪族で秩父氏流の河越氏の館である。
東側に接する入間川を天然の堀として使っていたことも考えられる。
高さ1~3mの土塁で周囲を囲み、その外に堀が掘られていた。いずれも一部現存している。その他に井戸跡、住居跡などが残る。
入間川西側の河畔、入間川と越辺川支流の小畔川に挟まれた飯能台地の北東端に建つ、城としては単純なおよそ2町(218m)四方の城地を持つ単郭式。在地豪族で秩父氏流の河越氏の館である。
東側に接する入間川を天然の堀として使っていたことも考えられる。入間川は江戸時代初期の瀬替えで荒川と合流されるまでは直接江戸湾に注ぎ、古代より物流の大動脈となっていた河川だった、
台地は館跡付近で低台地化し、北に続く水田面の沖積低地とは比高差がほとんどない。
河越氏が館を建てた頃は、高さ1~3mの土塁で周囲を囲み、その外に堀が掘られていた。いずれも一部現存している。
この堀によって方半町程度に区画された屋敷割が、道路を介しながら何区画か寄り集まるように展開していたと考えられる。
その他に井戸跡、住居跡などが残る。
館の本郭だけでなく、周囲にはそれぞれに区画された付随施設の跡が多数確認されており、当時の中心地でもあったことが窺える。
また館跡北東には幅約11メートル、深さ3メートルに達する外堀があり、かつては入間川の水を引き入れていたと思われるが、この堀が全周を囲んでいたのか、それとも後代になってから増設されたのかは不明である。
館の一角には石積みで覆われた塚があり、祭祀に使われたと考えられている。
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鎌倉時代後期から南北朝時代頃になると、館跡の中心辺りに幅が3~4メートル近くの堀に囲まれ、一辺が一町近い方形区画が新たに造られた。
その一方で、周辺部には前時代的な小規模な堀区画も残っている。
河越氏が離れた後は、室町時代前半に常楽寺がそれまでの屋敷割を改修したが、その区画は河越氏時代の区画を基本的に踏襲している。
現在の道路に沿って見つかった中世の道跡からこの時期の遺物が多く見つかっていることと、館跡と日枝神社の中間地点で市神と想定できる神社建物風の遺構が見つかっていることから、館跡と日枝神社をつなぐ東西道路沿いに市や宿が展開されたと考えられる。
日枝神社は河越氏がこの地に進出した際に、その所領を後白河上皇の新日吉社に寄進し、館の西約500メートルに勧請した神社だった。
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総じて戦うための城というよりは河越氏の生活を営む居館であり同時に鎌倉幕府の地方政庁に近いが、歴史の項で触れるように実戦経験もある。
河越館跡がある台地上にはすでに弥生時代から大集落が営まれ、館の南には的場古墳群が展開するなど、古くから人々が集住し地域の拠点となっていた。
最近の研究では、律令期に河越館跡の南西方向に入間郡家が置かれ、武蔵国府と東山道を結ぶ東山道武蔵路が郡家の西を通り、その駅屋が入間川近くにあったことがわかってきた。
河越氏はこのように古代より政治的中心でありかつ水陸交通の要衝であったこの地に館を構えたのである。
その後南北朝時代に武蔵平一揆で敗れるまでの間、河越氏の嫡流またはその関係者が館を構えていたとされる。
河越氏が姿を消した後は、河越氏の持仏堂から発展したと伝わる常楽寺が寺域を広めたようである。
また時代が下ると一帯は山内上杉家と扇谷上杉家の争乱の舞台となり、河越氏没落後の河越館跡は山内方の陣城・上戸陣(うわどのじん)として用いられた。
上戸陣時代の堀跡が(館の区画割りとは違い)縦横に掘られており一定の改修がなされている。現在はその両者を容易に見分けられるような方法で展示されている(後述)。
上戸陣時代本陣が張られたとされる常楽寺周辺では、幅5メートルを超える土塁を伴った堀跡が(館の区画割りとは違い)折れを多用しながら縦横に掘られており一定の改修がなされている。現在はその両者を容易に見分けられるような方法で展示されている(後述)。
さらに時代が下った戦国時代には[[川越城]]の出城としても使われた。したがって川越城と並び立つことも可能ではある。
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【歴史】
久寿2年(1155年)、大蔵合戦において秩父重隆が討たれ秩父氏本拠大蔵が奪われると、重隆の孫・重頼は河越に居を移し河越重頼と名乗った。
永暦元年(1160年)、重頼は後白河上皇に所領を寄進し河越荘荘官となる。上皇はさらに新日吉神社に寄進したため、河越荘は新日吉社領となる。
河越館はおおよそこの時期に建設されたと思われる。
河越重頼は秩父氏が代々受け継いできた「武蔵国留守所総検校職」を受け継ぐ。この職は武蔵国の軍事統率権を握るものであり、要するに武蔵最大の軍事力を持っていた。
重頼はこの軍事力を持って保元の乱では源義朝に味方し、その子・頼朝の伊豆配流以降も彼を支援し続けた。
頼朝の乳母・比企尼の次女を妻とし、娘・郷御前(川越では京姫とも記録される)を頼朝の弟・義経の正室とするなど、頼朝とは非常に近い位置にいて重用されたが、皆さまご存知の通り義経は奥州平泉に攻め滅ぼされ郷御前も運命を共にする。文治元年(1185年)、重頼とその子重房は義経縁戚であることを理由に誅殺され、河越領以外の領地は没収されてしまう。
文治3年(1187年)、頼朝は重頼の未亡人河越尼に対して本領安堵を伝える。重頼の次男・重時と三男・重員は元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で討伐軍に従軍した記録が残り、鎌倉幕府内で一定の名誉回復が行われたことがわかる。
留守所総検校職は重員に受け継がれるが、このときにはすでに名誉職に近い実権の伴わないものであったことを示す書状が現存している。
それでも河越氏は鎌倉時代を通じて有力な御家人の一党であり、その居館河越館も領地経営や軍兵の養成に使われていたことが窺える。
13世紀後半、経重の頃になると河越氏は皇族将軍頼経の下向に共奉するまでに立場を回復し、文応元年(1260年)には将軍の傍に控える昼番衆に加わっている。
また経重は河越荘が新日吉社領となってからちょうど百年目にあたるこの年、新日吉山王宮に梵鐘を寄進している。さらに文永9年(1272年)には安達泰盛に協力して高野山町石を建立している。
このように河越氏は鎌倉時代を通じて有力な御家人の一党であり、その居館河越館も領地経営や軍兵の養成に使われていたことが窺える。
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鎌倉末期、六波羅探題が攻撃され河越貞重が近江で自刃するとその子・高重は幕府側から討幕派に転向、新田義貞に従って鎌倉攻撃に参陣する。
その後室町幕府が成立し南北朝の時代になると、河越高重と子の直重は足利尊氏の名代として関東に下向した足利直義に従う。しかし直義と尊氏の対立が決定的になると尊氏派として「武蔵平一揆」と呼ばれる旧秩父氏系他の平氏一党を引き連れて武蔵野合戦に従軍、直義派残党と南朝軍を小手指が原の戦いで撃破する。
この武蔵野合戦の主要戦場(高麗原、入間河原、小手指原)はいずれも当地から近く、河越館は有力な拠点であったと思われる。
河越直重はその後も尊氏派(北朝方)の有力な手勢として摂津などで南朝方と戦い戦果を挙げている。
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だが、尊氏が死ぬと関東を差配する鎌倉府の中で公方(鎌倉府の長官・室町将軍の代理人)である足利基氏(尊氏の四男)と執事(鎌倉府副長官・のち管領)である畠山国清が対立するようになる。
康安元年(1361年)から翌年にかけて直重は基氏の命に従い、基氏に反旗を翻した国清を討伐する。なお国清は「武蔵平一揆」の中心人物の一人で直重の遠縁でもあった。
しかし基氏は旧直義派の上杉憲顕を管領に据え、旧尊氏派の直重は冷遇されるようになる。
応安元年(1368年)2月、上杉憲顕が上洛している隙を突いて直重以下の「武蔵平一揆」が河越館にて蜂起。鎌倉と上杉憲顕本領の上野国の分断を図ったが、上杉方は足利基氏の子・金王丸(氏満)を大将に据えて討伐軍を組織する。
6月、河越館の合戦で武蔵平一揆は大敗、河越館は陥落し直重は伊勢に逃れた。ここでひとたび河越館は廃城となる。
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河越館(の跡地)が再び史料に現れるのは室町時代の最末期、というより戦国時代に入り、関東管領上杉家の末裔である山内・扇谷両上杉家の対立が深刻化したのちのことである。
扇谷方の築城した[[川越城]]を攻めるため、1497年(明応6年)に山内(管領)家方が河越館の跡地に陣を築く。これが上戸陣である。
かつて自らの祖が滅ぼした城館の上に陣を築くということに少しだけ歴史の皮肉を感じる。
この地で7年という長期にわたり対陣を続けていることから、仮設的なものではなく陣城としてかなり手を入れていたと考えられ、その点からもかつての拠点跡を改修するのは理に適っていたと思われる。
江戸期になってから編纂された『新編武蔵風土記稿』に北条方・大道寺氏の砦が上戸にあったという記述があることから、後北条氏による川越城奪取ののちも出城・拠点として使われており、小田原攻めに伴う川越城開城の後廃城とされたと考えられている。
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【現状】
川越市教育委員会による1971年から75年までの大規模な発掘調査により居館跡や井戸・土塁・堀跡などが出土、中世関東武士の城館の実情をよく示す史跡であると評価され、1984年『川越館跡』として国の史跡に指定される。
現在は川越市による大規模な整備が行われ、ほぼ全域が『河越館跡史跡公園』として公開されている。隣接地の上戸小学校内に設けられた史料展示室では出土品の展示も行われている。上戸小学校および隣接する常楽寺も城敷地であったと考えられている。
継続して行われた調査により、河越氏時代の遺構と上杉氏陣城時代の遺構双方が出土しており、その違いも図示されている。
特に堀の跡は、館時代の直線的な堀と陣城時代の曲線的な堀がそれぞれわかりやすく展示されており、違いが一目で見てわかりやすい。
出土物としては青白磁の梅瓶や型押文様の白磁皿などの高級中国製磁器や素焼きのかわらけが特徴的。
特にかわらけは13世紀中頃まで京都系の手づくねかわらけが出土し、鎌倉時代後期から南北朝時代までは鎌倉系のロクロかわらけが大量に出土している。
また特別な儀礼等に使われた京都系の白かわらけや、大坂産の瓦器杯が少量ながら出土することは、有力な在地武士河越氏の館跡を示す遺物といえる。
なお常楽寺境内には豊臣秀吉による小田原攻めの後この地で切腹申し付けられた川越城代大道寺政繁の墓も建立されている。
【交通情報】
東武東上線霞ヶ関駅より徒歩15分。または関越自動車道川越ICまたは鶴ヶ島IC、もしくは圏央道圏央鶴ヶ島ICよりどれでも20~30分程度。駐車場有。
史跡公園の開園時間は午前9時から午後6時(10月~3月は午後5時)。史料展示室は小学校構内のため日曜日の午前10時から午後3時までのみ公開。


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|所在地|埼玉県川越市上戸|
|所在地|埼玉県川越市上戸・鯨井|
|現存状態|堀、土塁、井戸跡、住居跡など|
|城郭構造|単郭式平城|

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