河村城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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相模・甲斐・駿河の国境近くに位置する境目の城で、後北条氏の[[箱根十城>日本100名城#l4a02ca1]]の一つに数えられる。
正確な築城年代は不明だが平安時代末期に河村秀高によって築かれたとされ、「河村城」の名は史料上では14世紀が初見となる。
南北朝動乱の時代の文和元年(1352年)、新田義興・脇屋義治ら北朝方が鎌倉に侵攻すると北朝方の反撃を受け、新田勢は河村氏を頼って河村城に立て籠もり、北朝方は同年3月15日に河村城を攻撃したという。
応永23年(1416年)に起こった、鎌倉公方足利持氏と前関東管領上杉禅秀が対立した上杉禅秀の乱の際にも河村城が登場し、翌年12月に鎌倉公方勢が河村城を拠点とした。
その後河村城はしばらくの間史料では見られなくなるが、16世紀に後北条氏の城として再び登場することとなる。

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永禄11年(1568年)に甲相駿三国同盟が崩壊し、甲斐の武田信玄が駿河の今川氏真を攻撃すると、相模の北条氏康・氏政父子は氏真を庇護し、信玄と対立した。
後北条氏は信玄の侵攻に備えて箱根口の[[山中城]]や足柄口の[[足柄城]]など相模・駿河国境の諸城を整備し、箱根口・足柄口と並んで交通の要衝となっていた河村口を固めるため河村城を取り立てた。
山中城や足柄城の整備は三国同盟崩壊直後から進められたが、河村城はやや遅れて元亀2年(1571年)3月11日から始められた。
その背景として同年に後北条方の[[深沢城]]が武田方の手に落ちたという情勢の変化があり、河村城はさらに半年後の9月26日にも改修が行われている。
後北条氏は三国同盟崩壊に伴い越後の上杉謙信との越相同盟の交渉を進めていたが決裂し、武田氏と再同盟を結んだことで、武田氏に対する備えだった河村城の重要性は低下し、しばらくは史料上に河村城の名は見られなくなる。
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再び史料で河村城が登場するのは天正10年(1582年)以降で、武田氏滅亡から豊臣秀吉による小田原征伐にかけての時期に相模・甲斐・駿河の国境で緊張が高まり、再び河村口を固めるため河村城が必要となった。
この頃の河村城は「新城」と記されており、後北条氏が境目の城で採用していた城番制が河村城でも見られ、遠山左衛門尉景政らが在番している。
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河村城は足柄平野の北西部、丹沢山地南西部に位置し、南を酒匂川が蛇行する独立丘陵の尾根上を東西方向に築かれた。
尾根上の西側に御本城と呼ばれる曲輪があり、そこから東に蔵郭・近藤郭・大庭郭という主要な曲輪が連なっていた。
これらの曲輪は大きく御本城・蔵郭を中心とした西側部分と大庭郭・近藤郭を中心とした東側部分に分かれ、2つの山城が隣接したような構造となっている。
また大庭郭・近藤郭は15世紀の遺構が多く、それぞれの曲輪は横堀で囲まれている。
一方で御本城・蔵郭は大半の堀が尾根を遮断する目的で設けられた堀切で、また後北条氏の築城技術に特徴的な障子堀が確認されるなど、16世紀の遺構が多くなっている。
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小田原征伐の際、河村口を固める河村城は箱根口の山中城、足柄口の足柄城などとともに箱根を守る役割を期待されたが、豊臣方によって落城したとされ、その後廃城となった。

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|所在地|神奈川県足柄上郡山北町山北・岸|
|現存状態|堀、堀切、土塁など|
|城郭構造|連郭式山城|

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