河内津田城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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標高285mの国見山の山頂にある城で、秀吉が淀川沿いに京街道を作るまで京坂間の主要道であった東高野街道の脇街道の山根街道沿いにあり、京都・大坂・奈良の交通の要衝であった。
始まりは延徳2年(1490年)津田正信が築城したとされている。その孫正明は三好長慶に仕え河内国最大の国人となった。
正明の子正時になると三好氏を離れ松永久秀につくと、三好三人衆に攻撃され城を追われる。
和睦後復帰し三好義継を匿うなどしていたが、天正3年(1575年)信長に攻撃され4時間ほどで落城したとされるが…
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これら全て作り話しである。
国見山の麓にあった津田村が近隣の村々と国見山の利権争いになり、元禄7年(1694年)京都町奉行所で裁判になった。
この時津田村側が山の利権の証拠作りのため津田氏と津田城を捏造し提出、見事勝利を収めたのであった。
勝った理由の1つに実際に遺構があったのも大きいが、殆どは城郭の遺構ではなく生駒山地に幾つもあった修験道の拠点である。
一部に土塁の痕跡があるがこれは松永久秀と三好三人衆が争っていた時、要衝の場であった津田地域が争点の場になり利用されたものと思われ、16世紀の物と思われる白磁も出土している。
なお架空城が現代まで流布した経緯は、享保20年(1735年)幕府の官撰地誌『五畿内志』に掲載され、危ういと思いながら『津田史』が書かれこれを基に『枚方市史』・『城郭大系』等に記載されていった。
また津田正信の子孫と称する人物が現れると正信の墓を捏造し、道路拡張で潰されると新たに建て直されている。
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|所在地|大阪府枚方市津田|
|現存状態|土塁|
|城郭構造|架空城|

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