武蔵松山城 のバックアップの現在との差分(No.4)

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15世紀後半から16世紀初頭にかけて扇谷・山内の両上杉氏の抗争のなかで「松山張陣」「武州松山之儀」などの語が見られ、この頃に築かれたとされる。
戦国時代を通じて数々の合戦が行われた武蔵松山城だが、最もその攻防が激しかったのは天文末~永禄6年(1545年頃~1563年)にかけての、北条氏・上杉氏・武田氏による覇権争い、いわゆる関東三国志の時代だった。 
特に北条氏と上杉氏による争奪戦は激しく、武蔵松山城主の上田朝直は一時北条方についたものの、上杉謙信の関東出兵をきっかけに[[岩槻城]]主の太田資正が武蔵松山城を攻略した。
武蔵の要衝として、後北条氏・上杉氏・武田氏による激しい争奪戦の対象となった境目の城。
源経基や新田義貞らが築いたという伝説があるが、応永6年(1399年)に上田友直が築いたとされ、また15世紀後半から16世紀初頭にかけて扇谷・山内の両上杉氏の抗争のなかで「松山張陣」「武州松山之儀」などの語が見られる。
戦国時代を通じて数々の合戦が行われ、天文6年(1537年)の攻防戦は、武蔵松山城の難波田憲重とこれを包囲する後北条方の山中主膳が和歌問答を交わした、松山城風流合戦として知られる。

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資正は岩槻城と連携してよく守ったものの、北条・武田氏の連合軍によって永禄6年(1563年)に落城した。
その後武蔵松山城は一時北条氏の直轄となった後、永禄12年(1569年)に上田朝直が武蔵松山城主に復帰し、以後上田氏が支配するようになった。 
上田氏によって城の整備が進められたが、その縄張を見ると同じ比企郡の杉山城や武蔵小倉城のような技巧的な側面はあまり感じられず、縦横に巡る広大な堀が特徴となっている。

最も攻防が激しかったのは天文末~永禄6年(1545年頃~1563年)にかけての、後北条氏・上杉氏・武田氏による覇権争い、いわゆる関東三国志の時代だった。 
特に後北条氏と上杉氏による争奪戦は激しく、武蔵松山城主の上田朝直は一時後北条方についたものの、上杉謙信の関東出兵をきっかけに[[岩槻城]]主の太田資正が武蔵松山城を攻略した。
資正は岩槻城と連携してよく守ったものの、後北条氏・武田氏の連合軍によって永禄6年(1563年)に落城した。
この戦いでは信玄が金山衆という鉱山技師を動員し、地下から武蔵松山城に攻め込もうとした「もぐら戦法」の伝承がある。
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その後武蔵松山城は一時後北条氏の直轄となった後、永禄12年(1569年)に上田朝直が武蔵松山城主に復帰し、以後上田氏が支配するようになった。 
上田氏によって城の整備が進められたが、その縄張を見ると同じ比企郡の[[杉山城]]や[[武蔵小倉城]]のような技巧的な側面はあまり感じられず、縦横に巡る広大な堀が特徴となっている。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では約2300人が籠城したが落城し、徳川家康が関東に入ってからは松平家広が城主となって松山藩が開かれた。 
家広の弟である忠頼は慶長6年(1601年)も浜松へ転封となり、松山藩は川越藩に組み入れられ武蔵松山城は廃城となった。

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|所在地|埼玉県比企郡吉見町大字北吉見|
|現存状態|曲輪、空堀、土塁など|
|城郭構造|梯郭式平山城|
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