武蔵松山城 のバックアップの現在との差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]
【城郭構造】
武蔵松山城は丘陵先端部に位置し、北方から南流してきた市野川が丘陵端にぶつかり、回り込むように西側に大きく蛇行した後に南東に向かう。
城の北から西、南東方向にかけてはこの市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれる天然の要害となっている。
武蔵松山城の曲輪構成は、西から東に向かって本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪が一直線上に並び、それらを取り囲むように笹曲輪・太鼓曲輪・兵糧倉・惣曲輪をはじめ大小様々な腰曲輪が配置されている。
三の曲輪の北東に根古屋虎口が位置し、この虎口の北東側は根古屋だったとされる。
また三の曲輪の南には馬出が配置され、さらに城の南東は「御林」と呼ばれる広大な外郭があった。
それぞれの曲輪の周囲には大規模な空堀と折れをもつ切岸が巡らされているが、各曲輪には土塁がほとんど見られず、各曲輪間の見通しがいい点で比企郡周辺の城の中では特異的となっている。

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武蔵の要衝として、後北条氏・上杉氏・武田氏による激しい争奪戦の対象となった境目の城。
源経基や新田義貞らが築いたという伝説があるが、応永6年(1399年)に上田友直が築いたとされ、また15世紀後半から16世紀初頭にかけて扇谷・山内の両上杉氏の抗争のなかで「松山張陣」「武州松山之儀」などの語が見られる。
戦国時代を通じて数々の合戦が行われ、天文6年(1537年)の攻防戦は、武蔵松山城の難波田憲重とこれを包囲する後北条方の山中主膳が和歌問答を交わした、松山城風流合戦として知られる。

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武蔵松山城の縄張を見ると、曲輪の折れ、横矢掛かり、馬出などの技法が見られるものの、現地に立つと[[杉山城]]や[[武蔵小倉城]]のような技巧的な側面は強くは感じられず、縦横にめぐる広大な堀の圧倒的な威圧感が何よりも感じられる。
城の領域である丘陵頂部、約2万7000平方メートルのうち、堀と切岸の面積が半分以上を占める。
さらに各曲輪の土塁などを除いた、実際に使用できる平坦面は約9000平方メートルと全体の三分の一にすぎず、大兵力によって備えるよりも、実戦的な城の構造そのものによって守備をするという意図がうかがえる。
広大な堀を活かすためか、二の曲輪の折れをもつ堀を隔てた北側の帯曲輪は幅約5メートル、長さ約50メートルと細長い。
これは城兵が守備する帯曲輪というよりも根古屋虎口方面から二の曲輪へと直線的に侵入させない、また見通させないための巨大な壁のようであり、堀を活かすために曲輪の面積を絞っている様子を見ることができる。
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最も攻防が激しかったのは天文末~永禄6年(1545年頃~1563年)にかけての、後北条氏・上杉氏・武田氏による覇権争い、いわゆる関東三国志の時代だった。 
特に後北条氏と上杉氏による争奪戦は激しく、武蔵松山城主の上田朝直は一時後北条方についたものの、上杉謙信の関東出兵をきっかけに[[岩槻城]]主の太田資正が武蔵松山城を攻略した。
資正は岩槻城と連携してよく守ったものの、後北条氏・武田氏の連合軍によって永禄6年(1563年)に落城した。
この戦いでは信玄が金山衆という鉱山技師を動員し、地下から武蔵松山城に攻め込もうとした「もぐら戦法」の伝承がある。
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武蔵松山城の根古屋は城の北東に位置し、ここに足軽衆の集落があり、根古屋から城の南東の山の根にかけてが武蔵松山城の城下町だった。
武蔵松山城と市野川を隔てて北西約1キロメートルに位置する松山本郷は、南は河越・江戸へ、北へは村岡で荒川を、長井の渡で利根川を渡河し太田・足利に通じる街道上にある。
これはかつての鎌倉街道上道下野線が入間川付近から分岐して北上したルートの一部が、戦国時代に入って江戸・河越・松山といった政治的・軍事的重要拠点を結ぶ幹線道路として整備されたものだった。
その位置・距離関係からもわかるように、本来は武蔵松山城とは別に形成・発展していった宿場・町場だったが、北条氏の支配下となり武蔵松山城が境目の城から領域として支配する拠点城郭となったのに伴い、松山本郷が城下として武蔵松山城に組み込まれていくこととなった。
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【歴史】
武蔵松山城に関する文献史料は豊富だが、そのほとんどは戦記物であり築城の起源・詳細は明らかになっていない。
しかし15世紀後半から16世紀初頭にかけて扇谷上杉氏と山内上杉氏との抗争のなかで「松山張陣」「武州松山之儀」などの語がいくつか見られ、この頃に扇谷上杉氏の勢力圏のなかで築城されたと考えられている。
戦国時代を通じて数々の合戦が行われた武蔵松山城だが、最もその攻防が激しかったのは天文末~永禄6年(1545年頃~1563年)にかけての、北条氏・上杉氏・武田氏による覇権争い、いわゆる関東三国志の時代だった。
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天文15年(1546年)4月、[[川越城]]の戦いで扇谷上杉氏は滅亡し、扇谷上杉方の太田資正は武蔵松山城から上野国に逃れた。
しかし同年8月には武蔵松山城を奪回し、上杉憲勝を城主に、上田朝直を城代とした。
ところが北条氏が再び武蔵松山城を攻め、その際に朝直が北条方に寝返ったため、武蔵松山城は再び北条方の城となるなど、武蔵松山城の支配をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられた。
弘治元年(1555年)、北条氏康が比企郡などで検地を行い、永禄2年(1559年)に小田原衆所領役帳で松山衆知行役高などが定められ、武蔵松山城における北条方の支配が安定するかに思われた。
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しかし川越城の戦いの後に越後国へ逃れた上杉憲政は、長尾景虎(上杉謙信)に上杉氏の名跡と関東管領職を譲って北条氏討伐を要請し、謙信は永禄3年(1560年)に挙兵し関東に出兵した。
上杉軍には反北条氏の関東諸将が参陣し、軍勢は9万6000人余りの大軍となって[[小田原城]]を包囲した。
小田原城を落とせずに謙信が帰陣した後、太田資正は永禄4年(1561年)9月に武蔵松山城を攻略し上杉憲勝を城主としたが、同年11月には北条氏康・武田信玄の連合軍が武蔵松山城を包囲した。
これは撃退したものの、翌永禄5年(1562年)に再び北条・武田連合軍5万5000が武蔵松山城を包囲すると資正の籠城軍数千は苦戦し、謙信に救援を求めた。
謙信はただちに出撃し、永禄6年(1563年)には武蔵国石戸まで進出したが、2月4日に武蔵松山城は北条・武田連合軍の猛攻に耐えかね、2年間におよぶ籠城戦の末降伏した。
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その後の武蔵松山城は一時北条氏の直轄となった後、永禄12年(1569年)の武田信玄と三増峠の戦いで武功を挙げた上田朝直が武蔵松山城主に復帰し、以後上田氏が支配するようになった。
上田氏が城主として領域を支配していくなかで城下の松山本郷は経済の中心地としての統制が進められ、様々な諸役の免除・保証・禁止・法度などの文書が出された。
天正13年(1585年)には松山本郷が手狭になったため新たに宿が造られたが、この新宿は武蔵松山城南方の市野川の対岸に位置し、このことからより城下として管理・監督しようとした意図がうかがわれる。
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豊臣秀吉との対決が迫った天正18年(1590年)2月には武蔵松山城主の上田憲定は小田原城詰めを命じられた。
松山宿には夜盗、前科者、負債のある者でも参陣し奔走すれば罪を許すという動員の制札が掲げられた。
そして松山宿中の者は武蔵松山城が危急の際には籠城し守備をすると申し出、それに対し憲定は武蔵松山城に籠城し奔走した者は自身が帰城した際には望み通りに引き立てることを約束している。
やがて秀吉の小田原征伐が始まり、小田原城に詰めた憲定に代わり、武蔵松山城は城代の上田河内守など約2300人が籠城した。
しかし前田利家・上杉景勝・真田昌幸らが率いる北国勢に包囲され、天正18年(1590年)5月に落城した。
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小田原征伐後に徳川家康が関東に入封してからは、松平家広が武蔵松山城主となって松山藩となる1万石を領した。
その後家広の死去によって家督を相続した弟の忠頼が慶長6年(1601年)も浜松へ転封となることに伴い、松山藩は川越藩に組み入れられ武蔵松山城は廃城となった。
その後武蔵松山城は一時後北条氏の直轄となった後、永禄12年(1569年)に上田朝直が武蔵松山城主に復帰し、以後上田氏が支配するようになった。 
上田氏によって城の整備が進められたが、その縄張を見ると同じ比企郡の[[杉山城]]や[[武蔵小倉城]]のような技巧的な側面はあまり感じられず、縦横に巡る広大な堀が特徴となっている。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では約2300人が籠城したが落城し、徳川家康が関東に入ってからは松平家広が城主となって松山藩が開かれた。 
家広の弟である忠頼は慶長6年(1601年)も浜松へ転封となり、松山藩は川越藩に組み入れられ武蔵松山城は廃城となった。

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|所在地|埼玉県比企郡吉見町大字北吉見|
|現存状態|曲輪、空堀、土塁など|
|城郭構造|梯郭式平山城|
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