此隅山城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報但馬の守護大名である山名氏宗家の居城として知られ、文中年間(1372~1375年)に山名時義が築いたという伝承が残る。 「此隅」の名称は、最澄が著した『山家学生式』の「照于一隅、此則国宝」から採用したものと考えられている。 但馬の守護大名である山名氏宗家の居城。山名氏は室町幕府の四職家として侍所所司を歴任した名門で、最盛期には日本六十六ヶ国のうち十一ヶ国の守護職を保持し「六分一殿」と称された。 此隅山城は文中年間(1372~1375年)に山名時義が築いたという伝承が残る。「此隅」の名称は、最澄が著した『山家学生式』の「照于一隅、此則国宝」から採用したものと考えられている。 文献上の初見は永正元年(1504年)であり、守護山名致豊と楽々前城主垣屋続成との抗争の舞台となった。 この致豊の時代に山名氏の守護所は九日市から此隅山城下の「御屋敷」に移ったと考えられ、祐豊の時代に永禄12年(1569年)に羽柴秀吉によって落城するまで使用された。 この致豊の時代に山名氏の守護所は九日市から此隅山城下の「御屋敷」に移ったと考えられ、祐豊の時代の永禄12年(1569年)に羽柴秀吉によって落城するまで使用された。 その後祐豊は天正2年(1574年)に有子山城を築き、新たな守護所とした。
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