檜山城 のバックアップの現在との差分(No.6)
現実の城情報湊城の図鑑文章で言及される城。 「東海将軍」「日ノ本将軍」と称された檜山安東氏の本城。安東氏は元々津軽の十三湊を本拠として北日本海交易を掌握した豪族だったが、15世紀半ばに南部氏に敗れて十三湊を放棄し、蝦夷地へと逃れた。 安東氏の家臣だった松前氏(蠣崎氏)の歴史書『新羅之記録』によると、蝦夷地に逃れた安東氏は康正2年(1456年)に秋田湊を拠点とする湊安東氏の協力で男鹿半島に入り、米代川河口域を支配していた葛西氏を討ち、檜山を本拠として領域支配を始めたという。 檜山城は康正2年(1456年)に安東政季が築城を開始したが、その頃は糠野城を居城としていたともされる。城は明応4年(1495年)に安東忠季が檜山屋形となった頃には完成していたとされる。 以後檜山城は忠季、尋季、舜季、愛季の居城となり、檜山・湊の両安東氏を統一した愛季は天正5年(1577年)に脇本城を居城とし、檜山城は愛季の嫡子実季の居城となった。 天正15年(1587年)に愛季が死去すると実季は一時脇本城に入ったが、2年後の天正17年(1589年)に叔父の通季との家督相続争いである湊合戦が起こり、実季は普請途中の脇本城から檜山城に移り籠城戦を戦い抜いた。 天正15年(1587年)に愛季が死去すると実季は一時脇本城に入ったが、2年後の天正17年(1589年)に従兄弟の通季との家督相続争いである湊合戦が起こり、実季は普請途中の脇本城から檜山城に移り籠城戦を戦い抜いた。 続きをクリックで表示 湊合戦以後、実季は「秋田城介」を名乗って秋田氏へと改姓し、湊城へと居城を移したことで檜山城は代官地となり、弟の英孝や重臣の大高相模守康澄が城代となった。檜山城は津軽氏や南部氏など陸奥の諸勢力に対する押さえの機能を果たし、檜山城代は野代湊を拠点とする交易も管理した。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造檜山城は北出羽を北流する米代川の河口から南東約12キロメートルに位置する、約133ヘクタールの広大な山塊に築かれた。標高は最高所で約165メートル、本丸で約140メートルで、城下からの比高は約125メートルとなる。 檜山城の主な支城として大館と茶臼館があり、大館は檜山城から北西約3キロメートル、檜山川と米代川の合流地点から東側の丘陵に築かれた。 昭和55年(1980年)には、檜山城、大館、茶臼館、そして安東氏の菩提寺である国清寺が一括して「檜山安東氏城館跡」として国の史跡に指定された。 コメント |
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