根福寺城の前身の野田山城主松浦孫五郎は三好政権から離反し、永禄元年(1558年)に岸和田城の十河一存の攻撃を受けた。 孫五郎は根来寺(根来城)に支援を要請し、根来衆は一存を撃退し野田山城を守り、根福寺城と改称した。 根来寺にとっては和泉進出の最短ルートに位置したため重要視され、以降も鉄砲で武装した根来衆が城に詰めていた。 根福寺城は純軍事的な城郭であり、東と西の曲輪群に分かれる一城別郭の構造だった。西の曲輪群には最大の特徴である畝状竪堀群があり、城全体で見ても和泉国最大、摂津国の芥川山城、河内国の飯盛山城にも匹敵する畿内最大級の山城だった。 天正13年(1585年)の羽柴秀吉による根来寺攻略の際、あるいはそれ以前に廃城になったとされる。
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