栃尾城 のバックアップ差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]
【城郭構造】
栃尾地域は新潟県長岡市の北東部に位置する守門岳と東山丘陵に挟まれた刈谷田川上流の盆地にあり、中世には高波保よ呼ばれる国衙領だった。高波保は室町・戦国時代に守護領として古志長尾氏が支配し、栃尾城は高波保を支配できる要衝の地に築かれた。
城は標高227.7メートルの鶴城山に築かれ、鶴が舞うような形をしているため、[[福岡城]]や[[柳川城]]、[[飫肥城]]などと同じく「舞鶴城」とも呼ばれる。
城からは東方眼下に栃尾市街地と刈谷田川を眺望することができ、南南東の大野町一丁目は栃尾城の根小屋とされ、「館屋敷」「佐々木館」「勘定蔵」などの地名が残っている。また東方の西谷川を隔てた秋葉山麓には、上杉謙信が創建したと伝わる曹洞宗常安寺がある。
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栃尾城は鶴城山の山頂部に本丸を構え、北側に松の丸・五島丸、南側に二の丸、二の丸の西側に中の丸・琵琶丸・馬繋丸・狼煙台など、主要な曲輪をL字型に配置している。
また北東の中腹には千人溜りや馬場といった大きな曲輪、山麓近くには金井曲輪と後藤曲輪という人名を付けた曲輪が設けられている。
そして要所には土塁や堀切、石垣、土橋、虎口、枡形などを構え、山頂部の本丸から最も下の曲輪までの高低差は約130メートルにもおよび、立体的な縄張となっている。
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本丸は弓なり状の細長い曲輪で、東側と西側は垂直に削り出した大切岸としている。特に東側の切岸は高さ約50メートルもあり壮観。
南側には虎口を構え、そこから伸びた土橋状の尾根で二の丸と連結している。北側は二重堀で松の丸と区画している。
本丸の西側切岸には二ヶ所に野面積みの石垣があり、現在は崩落によって大半が失われているが、かつては本丸を全周していた。
松の丸は内部を小さな段で二つに区画し、ここから東直下に位置する千人溜りとの間に十段の腰曲輪が設けられている。
三の丸は一部が傾斜する不整地な曲輪だが、尾根上に曲輪群のなかでは最も広い曲輪となっている。松の丸と三の丸を区画する堀切は全長約300メートルにもおよんだ長大な堀で、堀の北側に沿って土塁が築かれている。
本丸の南側に配置された二の丸は小さな段で三つに区画され、南眼下に根小屋と思われる大野の集落を眺望することができる。
北東へ下る尾根上には腰曲輪が階段状に設けられ、その北直下に「金銘泉」と呼ばれる湧水があり、栃尾城の重要な水源の一つだった。
中の丸は二の丸の西側に位置し、二の丸とは箱堀状の浅い堀切で区画されている。
中の丸の西側には大型の箱堀を隔てて琵琶丸があり、琵琶の形に似ていることから名付けられたという。ここから先にある馬繋ぎ場は土塁と堀切で厳重に守られている。
最西端の狼煙台は標高230.6メートルと本城では最も高いところにあり、三方を低い土塁で囲まれている。
本丸北東の中腹にある千人溜りは本城では最大の曲輪で、2~3メートルの段で四つに区画されている。
千人溜りの北側にある馬場も大きな曲輪で、南西隅に馬洗場と呼ばれる窪地がある。北東隅に虎口を構え、その外側に土塁で守られた枡形を構えている。
馬場の下には後藤曲輪・金井曲輪が位置する。
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このような栃尾城の縄張は東西約850メートル、南北約450メートルにもおよんでおり、新潟県内では有数の大規模城郭となっている。
計画的に配置された曲輪群と高度化した切岸、大堀切、一部が箱堀となった堀切、本丸側壁の石垣、狼煙台状の施設などが特徴で、典型的な戦国期山城である。
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栃尾城は南北朝時代の14世紀中頃、越後守護となった宇都宮氏綱の家臣、芳賀禅可が築いたと伝えられている。
室町時代には古志郡司として古志郡の統治にあたった古志長尾氏が支配していた。古志長尾氏は[[坂戸城]]を本拠とした上田長尾氏や、高城を本拠とした下田長尾氏に対抗するため、栃尾城に一族または家臣を入れて守らせていたと考えられる。
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天文12年(1543年)8月、14歳の長尾景虎(上杉謙信)が中越地方の平定と古志長尾氏継承のため栃尾城に入城した。この時、栃尾城には本庄実乃が在城していた。
栃尾城を拠点に中越地方を平定した景虎は天文17年(1548年)に栃尾城から[[春日山城]]に入り、兄晴景に代わって越後守護代長尾氏を継いだ。
こうして景虎は名実ともに越後の国主となり、栃尾城はまさに景虎旗揚げの城であったといえる。
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天正6年(1578年)、上杉謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で起こった御館の乱の時、栃尾城には本庄実乃の子と思われる本庄秀綱が居城していた。
秀綱は景虎に味方し、景勝方の直江信綱が守る[[与板城]]を攻撃したが落とせず、次第に景勝方が優勢となった天正8年(1580年)の4月に栃尾城は落城した。秀綱は城を脱出して会津方面に逃亡したという。
この時、景勝から内田伝之丞らに宛てられた書状に、「袮小屋までことごと放火して、巣城ばかりにした」「根小屋まで押しつめて放火した」「二十二日の早朝、根小屋へ押し寄せて放火し、巣城ばかりにした」「二十二日、宿城を破り、数多く討ち捕らえ、中城まで放火した」など、栃尾城をめぐる激しい攻防が生々しく書かれている。
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景勝は栃尾城の攻略後、安部弐介らの上田衆を在番させ城の守りを固めている。文禄3年(1594年)の段階では清水内蔵助が城将だった。
慶長3年(1598年)正月、景勝が会津に転封した後に越後に入った堀秀治は、神子田長門守を栃尾城主に命じ、栃尾の支配にあたらせた。
その後栃尾城は慶長15年の堀家改易によって廃城となった。

南北朝時代の14世紀中頃、越後守護となった宇都宮氏綱の家臣、芳賀禅可が築いたと伝えられている。 
室町時代には古志長尾氏が支配し、[[坂戸城]]を本拠とした上田長尾氏や、高城を本拠とした下田長尾氏に対抗した。
天文12年(1543年)8月、14歳の長尾景虎(上杉謙信)が栃尾城に入城し、ここを拠点に中越地方を平定した。
景虎は天文17年(1548年)に[[春日山城]]に入り、兄晴景に代わって越後守護代長尾氏を継いで名実ともに越後の国主となり、栃尾城はまさに景虎旗揚げの城だったといえる。 
上杉謙信の死後に起こった御館の乱の時、栃尾城は景勝方によって落城し、景勝は上田衆を在番させた。
景勝が会津に転封した後は、代わって越後に入った堀秀治が支配したが、堀家改易によって廃城となった。 
鶴が舞うような形をしているため、[[福岡城]]や[[柳川城]]、[[飫肥城]]などと同じく「舞鶴城」とも呼ばれる。

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|所在地|新潟県長岡市栃尾大野町・栃尾町甲字水ノ手|
|現存状態|曲輪、堀切、土塁、石垣など|
|城郭構造|山城|

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