越後本庄城主の本庄繁長が豊臣秀吉の惣無事令に触れて所領没収となった後、本庄城は直江兼続の弟大国実頼の預かりとなり、その後春日元忠が城代となった。この頃の城は「村上ようがい」として記されている。 上杉景勝の会津転封後の慶長3年(1598年)には村上頼勝が入り、改修が始められた。村上氏の断絶後は堀氏が整備を進め、続く本多忠義の時代に村上城は本丸の三層天守・、二の丸・三の丸の諸櫓、長大な石垣を備える近世城郭として描かれている。 その後は松平直矩、榊原政倫、松平輝貞、間部詮房らを経て、享保5年(1720年)以降は内藤氏の居城として明治維新を迎えた。 寛文7年(1667年)に落雷で天守を焼失し、戊辰戦争で村上藩士が放火し建築物は失われた。しかし石垣などの近世期の遺構と、曲輪群や竪堀などの中世期の遺構が渾然一体となって残っている姿は貴重であり、平成5年(1993年)に国の史跡指定を受けた。
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