本与板城 のバックアップ差分(No.2)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*現実の城情報 [#information]
【歴史】
本与板城がいつ頃誰によって築かれたかは明らかになっていない。
明治時代に編纂された『温古の栞』には、「建武年中に籠沢入道が初めてここに築城して住居した」と記されており築城時期を南北朝時代としているが、この書物は何を根拠にまとめられたものかはっきりせず、かつ史料的価値に乏しいものであるため確証はない。
#br
室町時代に本与板城には越後守護上杉氏の重臣である飯沼氏が居城したといわれている。
飯沼氏の来歴は不明だが、室町時代の中頃に上杉氏に従って越後に入国し、上杉氏から本与板城主に任じられたと考えられている。
飯沼氏が歴史の表舞台に登場するのは宝徳2年(1450年)の「和田黒川文書」で、このなかに飯沼頼泰がみえる。
文明年間(1469~1487年)の「長尾飯沼氏等知行検地帳」には、高波保に多くの所領を有する飯沼遠江守、飯沼弾正左衛門尉が登場し、古志郡や三島郡に大きな勢力を持っていた。
しかし飯沼氏は永正11年(1514年)1月に[[坂戸城]]下の六日市で長尾房長と戦って敗北し、以後飯沼氏は歴史上から姿を消した。
ただし「直江家由緒」などによれば天文21年(1552年)もしくは天文22年(1553年)に直江景綱は飯沼頼清を打倒し、その一跡を賜ったという。これが事実なら飯沼氏は永正11年(1514年)以降も命脈を保っていたことになる。
#br
天文年間(1532~1555年)に飯沼氏を滅ぼした直江景綱は、飯沼氏に代わって本与板城に入城した。
景綱は本与板城を本拠に与板を支配し、上杉謙信の代には奉行人として謙信政権の中核を担っていた。
天正3年(1575年)の「上杉家軍役帳」によれば、景綱は三〇五人の軍役を負担する、上杉家中では大身の武将だったという。
この景綱の時代に本与板城の整備と強化が図られたとされる。
#br
その後直江氏は本拠を本与板城から[[与板城]]に移したとされるが、時代が変化するなかで拠点城郭を移動することは戦国領主の間でよくみられるものだった。
移転の時期は景綱の跡を継いだ信綱の時代の可能性が高いとされる。
ちなみに本与板城と与板城は城の規模にやや違いがみられるものの、いずれも連郭式の縄張りで近似し、曲輪の大型化と堀切の箱堀化、多重堀の配置などに共通性が認められる。
この2つの城には時間的な差異がほとんどなく同時期に存在していたものと考えられ、直江氏が本与板城から与板城に本拠を移した後も、本与板城は直江氏によって戦国時代後半まで維持され、上杉景勝の会津転封の際に廃城になったとされる。
#br
【城郭構造】
本与板城が立地する本与板集落は、新潟県長岡市与板町の北方に位置し、曽地丘陵の東麓に開けており東側には古くから水上交通が発達していた信濃川が流れる。
また背後の丘陵上には信濃川流域と島崎川流域・日本海沿岸をつないだいくつかの峠道が存在しており、水陸交通の要衝にあった。
本与板城は本与板集落の標高98メートルの丘陵上にあり、集落内には御館という屋号の家があり、その付近に城主の館があったと思われ、近年「お船の方生誕御館跡」の石碑が建立された。
本与板城から南方約1.8キロメートルの丘陵上には上杉景勝の執政だった直江兼続の居城である与板城がある。
#br
本与板城は俗称「城」と呼ばれる丘陵上の本城地区と、本城地区から東方に突き出した丘陵先端部にある砦地区から構成されている。
全体的な縄張りや城下との位置関係などから、東側が大手、西側が搦手とされる。
本城地区はL字型の尾根を利用して本丸以下の曲輪群と土塁、堀切、竪堀、虎口などが設けられている。
本丸の西側は二の丸・三の丸・西曲輪などの主要な曲輪が一直線上に配置される連郭式の縄張りとなっている。
本丸の東側は櫓台状の2つの小さな曲輪と、その下に2つの大きな曲輪が設けられた。
本丸の南側には南曲輪が配置され、これらの主要な曲輪には土塁が築かれ、各曲輪は堀切と切岸で区画されている。
また本丸などの周囲には幅の広い腰曲輪が巡らされ、守りがより強化された。
#br
本丸は1500平方メートルもある大きな曲輪で、ここに「本与板城址」などの碑がある。
北側と東側、東南の三ヶ所に土塁、北東と東南の二ヶ所に出入り口としての虎口が設けられている。
この土塁はかつては本丸の全周を巡っていたが、第二次世界大戦の頃に本丸を畑とするために崩されたといわれる。
北側の土塁は中ほどが東西に掘り割られているが、これは戊辰戦争の時に陣地として使われた痕跡である。
本丸は広い空間であることから、ここには多くの建物や施設が設けられていたと考えられる。
#br
二の丸は本丸と同規模の空間であることから、ここにも主要な建物や施設が存在していたと考えら、西端にコの字型の土塁が築かれている。
二の丸の東側にある三の丸は西端に土塁が築かれ、北側の中央部付近に虎口が構えられた。
三の丸の先には大規模な土塁が築かれ、その前後に堀切が掘り込まれ二重堀となっている。
また土塁の中央部が切れていることから、ここに門が構えられていた可能性が高い。
二重堀の外側にある西曲輪は俗称「お花畑」と呼ばれ、北側から西側にかけてL字型に土塁が築かれている。
#br
南曲輪は5メートルほどの切岸で2つに区画され、本丸寄りの北側の曲輪は本丸の南直下に位置し、城の出入口にも近いことから非常時に兵が集結した武者溜まりと考えられる。
南側の曲輪は、本丸とともに大手である城下方面からの敵の侵入に備えていた。
#br
本城地区の東方に張り出した砦地区は、頂部に櫓台状の小さな曲輪が設けられ、その周囲に多くの腰曲輪が桟敷状に配置されている。
西側は尾根伝いに本城地区に通じ、東側に一条の堀切がある。
砦地区は本城地区と一体化しており、本城地区の前衛と城下の守備の役割を担っていた。
#br
本与板城は砦地区を含めると東西約500メートル、南北約250メートルにおよぶ大規模な山城となっている。
本丸以下の主郭群を一直線上に配置した連郭式の縄張りで、曲輪の大型化と土塁の多用、堀切の箱堀化、二重堀の配置などに、戦国期山城としての特色がみられる。

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|新潟県長岡市与板町本与板|
|現存状態|曲輪跡、堀切、土塁|
|城郭構造|連郭式山城|

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS