有子山城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報永禄12年(1569年)に山名氏の本拠此隅山城が羽柴秀吉によって落城した後、天正2年(1574年)に山名祐豊が築いた。 永禄12年(1569年)に山名氏の本拠此隅山城が羽柴秀吉によって落城した後、天正2年(1574年)に山名祐豊が築いた。 翌年には尼子氏掃討を目的に山名氏と毛利氏の同盟、芸但和睦が成立し、有子山城は黒井城の赤井直正に攻められている。 その後も但馬は織田氏と毛利氏の境目となったが、山名氏は織田に与さなかったため、天正8年(1580年)4月に羽柴秀長による第二次但馬侵攻によって再び落城した。 有子山城は以後織豊勢力の但馬支配の拠点となり、木下昌利、前野長康らを経て文禄4年(1595年)に小出吉政が入った。 続きをクリックで表示 関ヶ原の戦いで吉政は西軍として細川幽斎の丹後田辺城を攻めたが、弟の秀家らが東軍に与したことで旧領は安堵された。 慶長9年(1604年)に吉政は岸和田城に移り、子の吉英が有子山城を相続し、居館部を改修して出石城を築いたため、有子山城は廃城となった。 関ヶ原の戦いで吉政は西軍として細川幽斎の丹後田辺城を攻めたが、弟の秀家らが東軍に与したことで旧領は安堵された。 慶長9年(1604年)に吉政は岸和田城に移り、子の吉英が有子山城を相続し、居館部を改修して出石城を築いたため、有子山城は廃城となった。 有子山城の遺構は山名氏時代に築かれた山腹部と、織豊期に山名氏時代の縄張を石垣で改修した山頂部に分かれている。
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