曽井城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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宮崎県宮崎市恒久字曽井。
宮崎平野の南西側、大淀川支流の源藤川の北側にある丘陵上に築かれた城。
それが、伊東氏四十八城の一つに数えられる曽井城である。
築城年代は天授年間(1375~81年)とされ、鎌倉時代に日向に下向した伊東氏の支族である門川党の曽井祐善が築いたとされる。
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曽井氏は、応永年間(1394~1427年)、日向に進出していた島津氏と結びつき、たびたび本宗家に謀反を起こしていた。
これに対し伊東氏9代当主・祐安は、応永19年(1412年)曽井氏を攻め、両者は源藤川付近で衝突する。
島津氏の援軍があったものの、曽井氏は敗北をし伊東氏に服従することとなった。
だが、再び島津側に付いた曽井氏は、文安元年(1444年)伊東氏11代当主・祐尭によって攻め滅ばされ、大淀川南岸にあったその所領は併合された。
そして、永禄年間(1558~70年)頃、八代民部左衛門尉が城主を務めることとなり、伊東氏が没落すると、この地は島津氏領となり、曽井城には家臣の比志島式部大輔義が入ることとなった。
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天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐後に国割りが行われ、この地は再び伊東氏の領地となった。
この時秀吉は、黒田如水と福地三河守を奉行として、この城の大規模な改築を行わせたという。
伊東氏18代当主・祐兵は、一旦はこの城に入るも拠点とすることはなく、翌年飫肥へと移り住むこととなる。
伊東氏18代当主・祐兵は、一旦はこの城に入るも拠点とすることはなく、翌年[[飫肥>飫肥城]]へと移り住むこととなる。
その後、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になるまでこの城は存続していた。
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城跡からは、縄文時代、弥生時代の土器などが発見されており、周囲に古墳も多かった事から、この地が古代からの要地であったのではないかとされる。
現在城跡には病院が建てられ、遺構はほとんど見られなくなってしまっている。
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|所在地|宮崎県宮崎市恒久字曽井|
|現存状態|曲輪|
|城郭構造|平山城|

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