新発田城 のバックアップソース(No.4)
*現実の城情報 [#information]

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上杉景勝に反旗を翻した新発田重家の居城。新発田氏は揚北衆佐々木党である加地氏の庶流で、代々新発田城を本拠とした。
戦国期の新発田長敦は上杉謙信の七手組大将の一人として活躍し、謙信死後の御館の乱でも景勝方についた。
長敦の病死後は、新発田氏の一族である五十公野氏を継いでいた弟の五十公野治長が新発田重家として家督を継いだが、重家は御館の乱の論功行賞に不満を持ち、[[黒川城]]主蘆名盛隆や米沢城主伊達輝宗の支援を得て景勝に対し反乱を起こした。この時盛隆は[[津川城]]の金上盛備に命じ、津川より物資の補給を行わせている。
天正9年(1581年)に始まった反乱は、蘆名氏・伊達氏の介入や織田信長の上杉領への侵攻もあり7年間の長期に及んで天正壬午の乱における景勝の動きも制限した。
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この頃の新発田氏の居城だが、現在の新発田城の位置で発掘された中世期の遺物が14~15世紀のものが主体で、16世紀後半のものはあまり見られない。
また現在の新発田城の南東に位置する浦城がこの頃に改修されており、新発田領内でも最大の城であったことから、浦城を戦国後期の新発田城とする見方もある。
反乱の初期に行われた大規模な戦である放生橋の戦いや八幡表の戦いも、浦城近辺で行われた。
この二つの戦いを通じて重家は戦局を有利に進めたが、蘆名盛隆と伊達輝宗が死去したため両家による支援が望めなくなり、天正13年(1585年)には新発田方の新潟城・沼垂城が陥落し水路による補給が絶たれ劣勢に追い込まれた。
天正15年(1587年)には加地城が落とされ、また蘆名勢が入っていた赤谷城が落とされたことで陸路による補給路も絶たれ、さらに重家の義弟五十公野信宗が入った五十公野城も落ち、完全に孤立した新発田城はついに落城した。
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新発田氏は滅亡し、慶長3年(1598年)の景勝の会津転封後、旧新発田領には[[大聖寺城]]から溝口秀勝が入った。
秀勝は新発田氏の居館があった地に近世城郭としての新発田城を築いた。城は蒲原平野の北東部、加治川左岸に南北に長い瓢箪形の縄張で築かれ、川を巧みに取り込んで外堀として利用した。
南を会津・羽前街道が通り、残る三方は湿地帯が広がる要害で、新発田川からつながる潟や沼を使って上流の五十公野方面や下流の沼垂方面に航行でき、新潟港にも近い水陸交通の要衝だった。
築城以降は明治維新に至るまで新発田藩溝口氏の居城となり、城が完成したのは承応3年(1654年)、三代藩主宣直の頃という。
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現在の新発田城は一部が自衛隊の駐屯地となっているためその敷地内は公開されていないが、重要文化財となっている現存の表門と二の丸隅櫓は公開されており、発掘調査をもとに三階櫓と辰巳櫓が木造で復元されている。
また下屋敷と溝口家の茶寮は「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園」として国の名勝に指定され、庭園内の足軽長屋は「旧新発田藩足軽長屋」として重要文化財に指定されている。

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|所在地|新潟県新発田市大手町|
|現存状態|櫓、長屋、門、石垣、土塁、堀など|
|城郭構造|平城|
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