志苔館 のバックアップの現在との差分(No.3)

現実の城情報 Edit


室町時代の領主だった小林重弘によって築かれたとされる道南十二館の一つで、函館市の中心部から約9km離れた海岸段丘南端部に位置している。

小林氏が松前藩に従属し廃館になるまで、二度アイヌの蜂起により陥落している。

1934年、国の史跡に指定された。

蝦夷地を支配した安東氏が築いた道南十二館のうち、その最東端に位置する館。

安東氏は13世紀に蝦夷の代官として蝦夷地へ進出しアイヌとの交易を行っており、14世紀末になると安東氏は道南に館と呼ばれる拠点を築くようになった。

館は平時は交易や領地支配の拠点、戦時には城砦として機能し、海岸線に沿って西から東に築かれたこれらの館を総称して道南十二館と呼ぶ。

このうち14世紀末から15世紀初頭に、安東氏の重臣である小林重弘によって築かれたとされるのが志苔館で、築城年代が推定される館では最古のものとなる。

享徳3年(1454年)、安東政季は南部氏との争いに敗れて蝦夷地に逃れると、家臣を道南十二館に配置して勢力の挽回を図った。

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康正2年(1456年)、志苔の鍛冶屋がアイヌの男性を口論の末に殺害したことをきっかけに、アイヌは首長のコシャマインをリーダーに団結し、翌年にコシャマインの戦いが始まった。

アイヌの軍勢は志苔館を含む10の館を陥落させ、重弘の孫である良景は討死した。翌年にコシャマインが討たれると志苔館は奪回されたが、その後もアイヌとの戦いは散発的に続き、永正9年(1512年)のアイヌ蜂起の際に志苔館は再び陥落し、良景の子良定も討死した。

これらのアイヌとの戦いのなかで安東氏の家臣だった蠣崎氏が台頭し、大館を本拠として安東氏に代わり蝦夷地を支配するようになった。

志苔館では良定の子良治が蠣崎氏に従属し、その後志苔館が記録上に登場することはなくなったため、志苔館はアイヌによって陥落した時に放棄され廃館になったと思われる。


志苔館は函館市の中心部から約9キロメートル離れた海岸段丘南端部に立地し、東西に川、南は海に面し、四方に土塁と空堀をめぐらせた単郭方形の縄張となっている。

城域は東西約70~80メートル、南北約50~65メートルで、7棟の建物跡が確認されている。建物跡は柱と柱の寸法の違いから建てられた年代が違い、最も古いものは築城当初の14世紀末~15世紀初頭の掘立柱建物跡、次に古いのはコシャマインの戦い後の15世紀半ばに再建された掘立柱建物跡、そして最も新しいのは16世紀以降と思われる礎石建物跡となっている。

周囲を囲む土塁の高さは南が約1~1.5メートル、北が約4~4.5メートルで、西は約1.8メートルと約2.4メートルの土塁が二重になっている。北と西にはさらに深さ約2~3.5メートル、幅約5~10メートルの空堀が設けられた。

主郭の西側は大手にあたり、土塁に挟まれた中央部分には門跡が見られ、その外側には二重堀が設けられ土橋と木橋で主郭と接続されていた。

また建物跡の周囲には囲いや敷地内を区画するための柵や塀の跡も確認されている。


志苔館は昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され、昭和52年(1977年)には腰曲輪、濠、溪沢全体を指定地とするために追加指定され、平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。

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所在地北海道函館市
現存状態曲輪、土塁、空堀
城郭構造
城郭構造単郭方形館

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