御所ヶ谷神籠石 のバックアップ差分(No.7)

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*現実の城情報 [#information]

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御所ヶ谷神籠石は昭和の時代に「ごぜがや」と言われていたが、現在では「ごしょがたに」として定着しており、昭和28年(1953年)に国指定史跡「御所ヶ谷神籠石」として指定されていた。
ただ、神籠石と朝鮮式山城の差異については明確ではなく、現在では「神籠石」の冠は削除され、単に「御所ヶ谷城跡」と名を改めている。
また、大規模な古代山城としてその昔、景行天皇の熊襲征伐の途次、皇居を構えた場所とも言われる。(『豊前志』)
京都郡勝山町大久保と犀川町、行橋市津積にまたがる標高247メートルの岳が辻の山梁の西にあったが、現在はその城址が残るのみである。
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&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
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御所ヶ谷の地名も景行天皇の行在のあったところから名づけられており、京都郡の由来自体も景行天皇に関係があるとされる。
詳しい資料が少ないためどういった城の様相であったか不明瞭ではあるものの、復元された貴重な神籠石式山城である[[鬼ノ城]]の状態と、西日本に築かれたいくつかの神籠石式山城の目的が同一であるとされていることから、ほとんど変わらない外観だと考えられる。

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|所在地|福岡県京都郡みやこ町大久保|
|現存状態|石塁、列石、水門口|
|城郭構造|古代山城(神籠石式山城)|
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&color(White,Maroon){現存状態(クリックで表示)};
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**現存状態 [#h870e7b4]

山梁の南面と北斜面渓谷の東西両側の尾根に近い部分に、切石状の列石とその痕跡が4キロメートルにわたり残っている。
北斜面の東方、中央、西方の渓谷に東の門、中の門、西の門の石塁がある。特に中の門の石塁は高さ6メートル、長さ30メートル余りのもので、切石をもって構築され、基部には精巧な水門口がある。
西之門付近には馬立て場と称する石積が残っている。東の門にも石塁と列石が残り、築城は7世紀頃といわれている。

いまではすっかり整備され、実際に城址を見学することが可能である。苔の生した列石は言葉にし難い情緒を孕んでいるので、見学の際には是非とも見ておきたい。
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&color(White,Maroon){神籠石について(クリックで表示)};
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**神籠石について [#i3289c14]

日本城郭検定でも登場する築城形式の一つではあるが、そこまで詳しくない者からすればいったい何故この名前が付けられているのか謎であろう。
ことの発端は明治31年(1898年)に小林庄次郎氏の報告にまで遡る。小林氏により筑後の高良山が踏査され「神籠石」と呼ばれる列石の報告があがった。
小林氏は神籠石=霊域であるという説を唱えていたが、明治33年(1900年)に女山、雷山、鹿毛馬の列石を調査した八木奬三郎氏は、神籠石が古代山城に由来する城郭説を唱えた。
小林氏は神籠石=霊域であるという説を唱えていたが、明治33年(1900年)に女山、雷山、鹿毛馬の列石を調査した八木奬三郎氏は、神籠石が古代山城に由来する城郭説を唱える。
また、八木氏は神籠石の存在がすでに昔から認識されていることを明らかにした。
福岡藩医である貝原益軒の著書『筑前国続風土記』の「怡土郡(22巻)」((西ヶ谷泰弘氏の『日本史小百科 城郭』では『筑後国風土記』を貝原編纂の書とし、ここに「香合石」の記載があるかのように紹介されているが、貝原が編纂した書は『筑前国続風土記』であるため誤りである))に登場する香合石(こうごうせき)((雷山に所縁のある逸話や踏査した際の様子が書かれている項目で紹介あり))の部分がそれに当たるとしたのだ。
呼び名の由来も同書に明記されており、「其形方にして、蓋をしたるが如く成、合わせて有て、かうばこの如し。故に香合石と云。」と説明がある。
香合石のほか、続けざまに''「神護石」''という呼び名も紹介されている。この呼び名が変遷し神籠石の名称が発生したと思われる。
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霊域か城郭か。この論争の決着には数十年という年月を要した。
昭和34年(1959年)に原田大六氏が「神籠石の諸問題」を発表し、大陸からの防備を論拠に城郭である説を論じた。
昭和36年(1961年)には坪井清足氏が森貞次郎氏の論をもとに九州国内の契機が神籠石を生み出したとする城郭説を唱え、以後多数の考古学調査により現在は城郭説が定着する。
霊域説の論が発生した背景には少なからず『日本書紀』『続日本書紀』が関係している。
もちろん、遺構の調査が不十分な状態で推論が展開されたことにも原因はあるが、仲哀天皇・神功皇后を中心に熊襲(くまそ)討伐や羽白熊鷲の討伐の伝説が貝原の書でも説明されており、この項をもって霊域説の考えが自然発生したと推察できる。
小林氏と八木氏の調査結果では収まらず、「霊域か城郭か」の論争の決着には数十年という年月を要した。煮え切らない状況に一石が投じられるのは戦後しばらく経ってからであった。
昭和34年(1959年)に原田大六氏が''「神籠石の諸問題」''を発表し、大陸からの防備を論拠に城郭である説を論じる。
続けざまに昭和36年(1961年)には坪井清足氏が森貞次郎氏の論をもとに九州国内の契機が神籠石を生み出したとする城郭説を唱え、以後多数の考古学調査により現在は城郭説が定着した。

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