平塚城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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平安時代に豊島郡に土着した武蔵の名族・豊島氏のもともとの本拠地。別名を豊島城・豊島氏館。
現在のJR京浜東北線上中里駅近くにある平塚神社とその周辺が城跡である。台地の端を利用した崖端城(平山城)だった。
しかし城としてどのような構造であったかは不明のところも多い。在地豪族の居館として相応しい規模であったと思われる。
豊島氏は秩父氏(秩父党)に連なる一族で、平安時代に豊島郡を得た豊島近義がその郡衙(役所)に居館として平塚城を築いた。
後三年の役からの帰路に源義家とその弟義光・義綱が逗留したといい、三人の徳を慕って当時の当主が居館内に社を営んだのが現在の平塚神社の始まりとされる。のちに義家の子孫・源頼朝が挙兵すると豊島氏は頼朝の幕下に従った。

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豊島氏は鎌倉時代を通じて武蔵の有力な御家人として、他の秩父党と共に武蔵平一揆と呼ばれる武士団を形成していた。
しかし足利幕府の時代になると平一揆はその勢力から警戒され冷遇されるようになり、応安元年(1368年)[[河越館]]にて挙兵。
武蔵平一揆の乱と呼ばれるこの蜂起に豊島氏も同調したが河越館は陥落し平一揆は瓦解。豊島氏もその所領を没収されてしまった。
豊島氏は室町時代中期の応永2年(1395年)に所領を返還され、新しく[[石神井城]]を築いて本拠を移し、平塚城はその支城となった。
ただしこの時あるいはその前の所領を没収されていた時期に平塚城は一度廃されており、後まで機能していなかったとする説もある。

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豊島氏はその後管領上杉家の下に入るが、長尾景春の乱が起きるとこれに呼応して挙兵、河越街道を遮断する態勢をとった。
平塚城に近接した場所に太田道灌によって[[江戸城]]・[[稲付城]]が築かれ、豊島氏勢力圏を侵害したことが景春に同調した理由とされる。
従来説では平塚城で豊島平右衛門尉泰明が挙兵したとされたが、古文書検討の結果それには不自然な点が複数あり、否定されている。
(例:道灌は江戸城に帰ると見せかけて豊島勢を誘き出し、江古田原で反転迎撃し打ち破った。しかし平塚城からでは方向が合わない、等)
現在では泰明が挙兵したのは[[練馬城]]だったと考えられ、平塚城は江古田原の戦いには関係していなかったとするのが有力である。

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その江古田原の戦いに敗れ、さらに居城石神井城からも追われた当主・豊島勘解由左衛門尉泰経は翌年平塚城を拠点に再び挙兵する。
しかし道灌が追討軍を差し向けると城を捨てて行方知れずとなった。なお、その後[[小机城]]に逃れたとする説もほぼ否定されている。
平塚城が歴史上に登場したのはこれが最後となり、その後は旧城地の一角が平塚神社の社域となって現在に至っている。
ちなみに神奈川県平塚市にも同名の平塚城があり、こちらは扇谷上杉家重臣大森氏の築城と伝わるが遺構も記録も乏しく不詳。

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|所在地|東京都北区上中里|
|現存状態|堀跡、櫓跡等出土|
|城郭構造|平山城(崖端城)|


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