川越城 のバックアップ(No.3)
現実の城情報長禄元年(1457年)に扇谷上杉持朝が古河公方に対抗するため、太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて武蔵国河越に築城した城。 築城後は扇谷上杉家の武蔵における居城として、足利古河公方との抗争(享徳の乱)、山内上杉家の武将長尾景春の反乱、道灌謀殺後の扇谷・山内両上杉家の対立(長享の乱)などにおいて有力な拠点として用いられた。 続きをクリックで表示 明応6年(1497年)には山内上杉顕定が河越館に陣所を築き、足利公方足利政氏を招いてともに川越城の扇谷上杉朝良を攻めた。 引き続いて永正の乱が起こると伊勢宗瑞・北条*1氏綱親子が勢力を拡大。扇谷家は甲斐武田・山内上杉の助力を得て対抗する。 天文10年(1541年)に北条氏綱が死去、氏康がその後を継ぐ。 豊臣勢が入城した際に『馬出しを崩し堀を埋めた』という内容の城下住民の日記があり、徳川初期は北条氏時代より城が狭かったと思われる。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造武蔵野台地の北東端に位置する平山城である。標高は最も高いところでも20メートル程度しかないが、台地の端であるため台地下側とは5~8メートル、場所によって10メートル以上も比高がある。 築城当時の縄張りは「道灌がかり」という連郭式に類されるもので、本城から外に子城、中城、外城と呼ぶ独立した曲輪をつなげていくものであった。 松平信綱による大改修は、このような配置であった川越城をさらに東西に拡大するように行なわれた。 明治維新期には川越藩主・松平康英によって、新政府軍への恭順を示すため一部の堀が自主的に埋め立てられた。現存する堀跡もいくつかある。 本丸御殿は嘉永元年(1848年)に築造され、明治の破城令ののち次第に解体されたが、大広間及び玄関部分だけは一時役所、学校、道場などとして使われた。 河越城の戦い(河越夜戦)(クリックで表示) 河越城の戦い(河越夜戦)天文14年(1545年)9月、扇谷上杉朝定は山内上杉憲政および古河公方足利晴氏と呼応して挙兵。総勢7万とも8万とも号する大軍勢で城を包囲し、河越城の戦いが始まった。 8万の大軍勢には山内上杉の家臣・長野業正や上泉信綱、扇谷上杉の家臣・太田資正など関東の諸将ほぼ全てが参陣し、一説には攻城側に加わらなかったのは千葉利胤のみであったともされる。 天文15年(1546年)4月、氏康は包囲側にも気の緩みや軍律の低下が見られるようになったことを知ると奇襲を決意する。 一連の戦いでの連合軍側の死傷者総数は1万3千から5千にも及んだと言われ(討ち死にだけでも約3千)、武蔵の情勢は一気に後北条側に傾いた。 童謡『とおりゃんせ』(クリックで表示) 『とおりゃんせ』わらべ歌の『とおりゃんせ』のモデルとなったのが川越城といわれている。城内の三芳野神社(天神様)は古くから信仰を集めていたが、城が築かれて参拝できなくなってしまった。 川越城七不思議(クリックで表示) 川越城七不思議川越城に伝わる七つの伝承を総称して七不思議と称し、川越市ではこのゆかりの地を巡るルートを散策コースの一つに制定している。 初雁の杉北から飛んできた初雁が三芳野神社にあった杉の木の上で必ず三度回り三回鳴いて飛び去った。このことから初雁城と呼ぶようになった。 霧吹きの井戸城が攻められたときにこの井戸の蓋を取ると霧が噴き出し、城の姿を覆い隠して敵軍を攻めあぐねさせた、と伝わる。このことから城は霧隠の城とも呼ばれた。 竜神の人身御供川越城の下側には七ツ釜と呼ばれる深い沼地があり、太田親子は築城に難儀していた。 天神洗足の井戸道灌(または道真)が濠の水源を探して築城予定地を見回っていると、天神社(三芳野神社)の近くで老爺が足を洗っていた。 七ツ釜片葉の葦戦に破れて城が落ち、宵闇に紛れて落ち延びようとした城の姫君が七ツ釜の沼に落ちてしまった。 遊女川の小石供養河越の郊外の村娘が、殿様の鷹狩りの供で村に来た城の若侍と恋に落ちてやがて結婚した。しかし姑の嫁いびりが厳しく、ついに遊女川の淵に身を投げて死んでしまった。 城中蹄の音家康が江戸に入った後、川越には酒井重忠が配された。あるとき重忠が寝ていると馬が駆け回る蹄の音がして、しかもこれが毎晩繰り返される。 コメント |
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