川越城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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長禄元年(1457年)に扇谷上杉持朝が古河公方に対抗するため、太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて武蔵国河越に築城した城。
[[日本100名城]]・[[関東七名城>日本100名城#m8c02b5c]]の一つに数えられ、三大奇襲戦の一つ、河越夜戦が起きたとされる城として有名である。別名に初雁城、霧隠城とも。
なお川越城は築城から長く河越城であり、改名したのは徳川以降であるがここでは川越城で統一する。
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築城後は扇谷上杉家の武蔵における居城として、足利古河公方との抗争(享徳の乱)、山内上杉家の武将長尾景春の反乱、道灌謀殺後の扇谷・山内両上杉家の対立(長享の乱)などにおいて有力な拠点として用いられた。

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明応6年(1497年)には山内上杉顕定が[[河越館]]に陣所を築き、足利公方足利政氏を招いてともに川越城の扇谷上杉朝良を攻めた。
河越館はこの後も長享の乱を通じて山内方の陣所となり、乱が終息したのちには川越城の出城にもなる。
永正元年(1504年)に顕定は再度川越城を攻めるが、これは今川氏親と伊勢宗瑞(北条早雲)の援軍によって退けられた。 
しかし翌年、顕定は実家である越後守護上杉家の援軍を得て今川・伊勢が撤退したあとの川越城をまたも攻め、朝良は降伏し家督を甥で養子の上杉朝興に譲り(諸説あり)、長享の乱は終結した。
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引き続いて永正の乱が起こると伊勢宗瑞・北条((大永3年(1523)頃名乗りを変える))氏綱親子が勢力を拡大。扇谷家は甲斐武田・山内上杉の助力を得て対抗する。
しかし北条家は勢力を拡大していき、大永4(1524)年に[[江戸城]]・[[岩槻城]]が陥落させられると川越城も激しい争奪戦の舞台となる。
江戸城落城後から天文13年(1544年)まで大きく分けて4度の争奪戦が繰り広げられた。
天文6年(1537年)4月に上杉朝興が没し、子の朝定が12歳で当主となるが、隙をついた氏綱が同年7月に川越城を攻めて落城する。
朝定は松山城に敗退し、北条の城となった川越城には北条綱成のような一族衆や重臣・大道寺氏をはじめとする「河越衆」が配された。 
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天文10年(1541年)に北条氏綱が死去、氏康がその後を継ぐ。
好機と見た朝定は山内上杉憲政と改めて和睦し対後北条同盟を結成。こののち河越城の戦い(河越夜戦)が始まるが、別項目にて後述。
河越夜戦により周辺の情勢は一応の安定を見た。川越城は後北条家の重要な拠点のひとつとして存続し、大道寺氏が城代として治めた。
しかし豊臣秀吉の小田原攻めでは大道寺政繁が[[松井田城]]で豊臣方に降伏したため戦火を交えることなく開城し、前田利家が入城した。 
徳川家康が関東に移封すると譜代家臣の酒井重忠が入城。江戸幕府開府ののち川越藩が始まったが、歴代藩主には幕府老中となった者が7名もおり、松平信綱・柳沢吉保などが名君として挙げられる。
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3代将軍家光の信任篤かった松平伊豆守信綱は許可を得て川越城の大改修を行い、それまでの倍以上の広さを持つ近世城郭に作り変えた。
また城下町の整備をあわせて行い、その発展の様相は『小江戸』と称されて「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われた。 
現在も有名な『蔵造りの町並み』は江戸期を通じて繰り返し大火に襲われたことから、「火に強い建築」を目指した結果普及したものである。
特筆すべきはこの町並みの保存が行政ではなく市民の間からの自発的な活動から起こったことである。 
明治を迎えると廃藩置県に伴って一時川越県、のち入間県の県庁所在地となるが、当時の人口では現埼玉県域で最大の街であった。埼玉で最初に市制を施行したのも川越市である。 

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|所在地|埼玉県川越市郭町2丁目|
|現存状態|本丸御殿、櫓跡、曲輪、堀、土塁など|
|城郭構造|連郭式平山城|
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**城郭構造 [#k777f752]

武蔵野台地の北東端に位置する平山城である。標高は最も高いところでも20メートル程度しかないが、台地の端であるため台地下側とは5~8メートル、場所によって10メートル以上も比高がある。
台地端を西から北へ回りこむように流れる赤間川を天然の堀とし、更に外に入間川がある。南は赤間川の支流遊女川の湿地帯(大沼)だった。
築城当時から江戸初期の間は東側は入間川辺りまで湿地帯であり、そちらから見ると[[忍城]]に近い浮き城でもあった。
台地の端にあり入間川・赤間川とその支流に囲まれ、守りの城を置くには好適な立地であった。
またその周辺は穀倉地帯でもあり、近在の坂戸([[坂戸城]]の坂戸とは別)付近には鎌倉街道も通っていてこれを抑えるにも適していた。
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築城当時の縄張りは「道灌がかり」という連郭式に類されるもので、本城から外に子城、中城、外城と呼ぶ独立した曲輪をつなげていくものであった。
曲輪はそれぞれ土塁を築き、曲輪の間には堀を巡らせ、曲輪同士の連結には跳ね橋、土橋、食違いの虎口などを配し、相互に支援し合えるようにした。
この頃の城の詳しい形態については不詳だが、当時から堅城とはされており入り組んだ曲輪配置を活かした防戦が可能であった。 
本丸とその北に二の丸が配置され、それ以外にも複数の曲輪があったものと考えられている。
童謡『とおりゃんせ』のモデル、三芳野天神のある天神曲輪も当時からあり、ここが本丸東側の守備陣地であった。
また北西側にある氷川神社も城の縄張りの中に巧妙に取り込んでいた(出城か?)と思われる伝承が残る。 
本丸南側の小山には天守代わりの富士見櫓が建てられており、現在も富士見櫓跡として残る。ここが本丸南西角の要所であった。 
後北条氏の勢力下に入ったのち、西側に新しく三の丸と八幡曲輪が増設され西側の防備を固めた。新曲輪の一部もこのとき増設されたものと思われる。 
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松平信綱による大改修は、このような配置であった川越城をさらに東西に拡大するように行なわれた。
三の丸の西側に中曲輪、さらに西に追手曲輪が増設され、追手曲輪には馬出を設けて西大手門を設置、本丸の北東側に新曲輪を拡張し、東側には帯曲輪、南東側に田曲輪を新設、帯曲輪には馬場が設置されていたという。
それぞれの曲輪は道灌時代と同じように堀で隔てられており、幾つかは城南側の大沼などから水を引き入れた水濠であった。 
さらに櫓を増設し計4つに増やし、南側大手門にも馬出を設けた。この大改修と拡張によって総面積がおよそ9万8千坪、道灌時代の倍にも巨大化した。 
この時代の川越城には中曲輪と追手曲輪に家老屋敷が並び、三の丸には藩主の隠居屋敷があった。
二の丸には藩主の住む屋敷と武具の管理所、本丸は後述する御殿が築造されるまでは基本的には空き地であったと考えられている。
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明治維新期には川越藩主・松平康英によって、新政府軍への恭順を示すため一部の堀が自主的に埋め立てられた。現存する堀跡もいくつかある。 
その後都市化が進み、城跡は次々に公共の施設や住宅などに転用されていった。
特に中曲輪北半分や三の丸、田曲輪、新曲輪はほとんどが宅地化しており旧状を見ることは困難になっている。
天神曲輪、帯曲輪はそのまま三芳野神社の境内、初雁公園と野球場および市営プールに転用されているが一部に土塁や堀の跡を見ることができる。
現在城の下には新河岸川が流れているが、これは元々伊佐沼に注いでいた赤間川を戦前の河川改修で付け替えたものであり、往時の新曲輪・帯曲輪外側の水濠跡を一部で再利用している。
中曲輪の南半分と追手曲輪、八幡曲輪は川越市役所と小・中・高校の敷地となっている。
二の丸は川越市立博物館と美術館の敷地となり、本丸には本丸御殿が残存するが、本丸御殿が現存する城は[[高知城]]と川越城の2城のみである。
市立博物館には江戸期川越城の精密模型、および川越城下町のジオラマがある。
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本丸御殿は嘉永元年(1848年)に築造され、明治の破城令ののち次第に解体されたが、大広間及び玄関部分だけは一時役所、学校、道場などとして使われた。
敷地面積にして往時の8分の1ではあるが、昭和42年(1967年)からの解体大修理を経て現存する。つい先年平成の大修理・調査を終えたばかりである。 
そのほか中曲輪と追手曲輪を隔てていた中ノ門脇の堀の復元が平成20年(2008年)から行なわれ、現在公開されている。

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&color(White,Maroon){河越城の戦い(河越夜戦)(クリックで表示)};
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**河越城の戦い(河越夜戦) [#occ22d70]

天文14年(1545年)9月、扇谷上杉朝定は山内上杉憲政および古河公方足利晴氏と呼応して挙兵し、総勢7万とも8万とも号する大軍勢で川越城を包囲し、河越城の戦いが始まった。
さらに今川義元が駿河から北条領に侵攻したため、後北条家は東西から挟撃される事態になった。
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8万の大軍勢には山内上杉の家臣・長野業正や上泉信綱、扇谷上杉の家臣・太田資正など関東の諸将ほぼ全てが参陣し、一説には攻城側に加わらなかったのは千葉利胤のみであったともされる。
対する北条綱成の指揮下の城兵はわずかに3千人でしかなかったが、半年以上にわたって籠城を続けた。
11月には川越の南の砂久保に今川義元と和睦した北条氏康が来援するも、率いる兵は8千と包囲軍の十分の一でありまともにぶつかっても勝ち目はなかった。
氏康は山内上杉や古河公方の家臣・配下を通じて和睦を請うが一蹴された。敵を油断させる氏康の罠であったとも言われるが、実際のところは定かではない。 
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天文15年(1546年)4月、氏康は包囲側にも気の緩みや軍律の低下が見られるようになったことを知ると奇襲を決意する。 
なお、その作戦を伝えるために守将・綱成の実弟、福島弁千代(孫二郎とも。のちの北条綱房)を女装させて単騎堂々と包囲を突破させ、川越城に入場させて連絡を取ったという逸話が残っている。
言い伝えによれば白い布襷あるいは紙切れを鎧の上からつけて敵味方が分かるようにし、敵を討っても首は捨て置くことなどを配下の将兵に厳命したとされる。 
4月20日(旧暦)夜半、氏康は側近の多目元忠に後詰を任せ、自らはその他の軍とともに夜襲を決行。同時に城内からも綱成以下城兵が一挙に打って出て連合軍の陣を襲撃した。
連合軍は大混乱に陥り一気に瓦解し、裏切りなどの流言さえ飛び交い一部では混乱のあまり同士討ちなども生じたといい、まず古河公方が撤退。
憲政も本陣に突撃されて敗走、撤退戦の中で本間近江守や倉賀野行政といった重臣を失う大損害を被る。そして朝定は家老・難波田憲重とともに討ち死にし、扇谷上杉家はここに滅亡した。 
氏康が余りにも追撃戦にのめりこみすぎたため、後詰を任された多目に法螺貝を何度も何度も吹き鳴らされてやっと止まったという逸話も有名である。
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この一連の戦いでの連合軍側の死傷者は1万3千から5千にも及んだと言われ、武蔵の情勢は一気に後北条側に傾いたが、河越夜戦については断片的な史料しか残っておらず、逸話の幾つかは軍記物をもとにしており信憑性が低いともされる。
しかしこの時期に川越城をめぐる大規模な戦闘があったこと自体はほぼ間違いなく、その中で朝定が死亡し扇谷家が滅亡、山内家の重臣の何人かが戦死したこと、その戦いによって後北条家の武蔵南部の支配がほぼ確立されたことは確実である。

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