岸和田城 のバックアップ差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]

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戦国時代に岸和田氏や松浦氏などの和泉国人が拠点とし、織豊時代には和泉一国の中心に位置づけられ、江戸時代には岸和田藩岡部氏十三代の居城となった、地域支配の変遷がうかがえる城郭。
城下を紀州街道が通り、西へと流れる古城川の河口部に港を有する水陸交通の要衝であり、当時は二の丸が海に面していた。
紀州街道を押さえる要衝の城で、南北朝時代から戦国時代、そして江戸時代に至る、地域支配の変遷がうかがえる城郭。
南北朝時代に和田氏が築いたとされる岸和田古城が始まりで、戦国時代になって現在の岸和田城の地に移ったと考えられる。
和田氏は和泉守護・細川氏に従ってこの地を治め、その後は守護代・松浦氏が入り、和泉国人の拠点として機能した。
松浦氏は細川氏から離反して三好長慶につき、長慶は弟である三好実休・安宅冬康・十河一存を岸和田城に入れ、大改修を行って和泉支配の拠点とした。

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やがて和泉は織田信長によって平定され、信長に和泉一国を与えられた蜂屋頼隆は岸和田城を居城とし、本能寺の変後は羽柴秀吉が中村一氏を入れ、この織豊時代には岸和田城は和泉一国の中心に位置づけられていた。
この時期の天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの際に根来寺([[根来城]])に攻められたが、無数の蛸に救われたという縁起が天性寺に伝わっている。
戦後、岸和田城には秀吉の叔父にあたる小出秀政が入り、五重の天守を築くなど近世城郭として改修した。
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秀政は関ヶ原の戦いで西軍についたが次男の秀家が東軍についたため所領を安堵され、岸和田城は岸和田藩の藩庁として引き続き小出氏が支配した。
大坂の陣の際には徳川方の松平信吉や北条氏重が入り、豊臣方の[[大坂城]]に対する重要拠点となった。
元和5年(1619年)、小出氏は吉英の代で[[但馬出石>出石城]]に転封となり、岸和田城には松平康重が入り改修を進めた。
改修は元和9年(1623年)にかけて行われ、破却された(徳川)木幡山伏見城から櫓を移築し、伏見櫓と呼ばれた。
寛永17年(1640年)に岡部宣勝が入ると、岸和田城を現在につながる姿に大改修し、以後岡部氏13代の居城となった。
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岸和田城は城下を紀州街道が通り、西へと流れる古城川の河口部に港を有する水陸交通の要衝であり、当時は城下のすぐ近くに海が迫っていた。
宣勝は海に面した外曲輪を整備し、城の海側の防備と防波堤を兼ねた、南北の外堀をつなぐ浜手の石垣を築いた。
本丸と二の丸を連ねた形は機織り機の縦糸を巻くちきりに似ており、「ちきり城」の別名の由来となっている。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際には根来寺([[根来城]])に攻められたが、無数の蛸に救われたという縁起が天性寺に伝わっている。城の周辺には他にも多数の寺院が寺内町を形成し、非常時の軍事拠点を想定していたとされる。
城の周辺には他にも多数の寺院が寺内町を形成し、非常時の軍事拠点を想定していたとされる。

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|所在地|大阪府岸和田市岸城町|
|現存状態|石垣、堀など|
|城郭構造|輪郭式平城|

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