岩殿城 のバックアップ(No.1)

現実の城情報 Edit

【城郭構造】
岩殿城は都留郡北部にある標高637メートルの岩殿山上に築かれ、前面にあたる南側には笹子川、桂川とその侵食による断崖に守られ、東側は葛野川、西側は浅利川とそれによって形成された河岸段丘によって隔絶された天然の要害となっている。
上野の岩櫃城、駿河の久能城?と並ぶ武田三堅城に数えられ、南側から望むと通称「鏡岩」と呼ばれる巨大な岩が剥き出しとなっていて、見るものにいかにも天険の要害という印象を抱かせる。


岩殿城の遺構は山頂部に集中しており、一部鉄塔建設などで破壊されているものの、よく残されている。
『甲斐国志』にはそれらが「一ノ堀」「二ノ堀」「本城」「馬場」「大門口」「蔵屋敷」「亀ヵ池」「揚木戸門」などと記載され、現地にも案内板で同様の呼称が用いられているが、必ずしも根拠があるものではなく、近世以来の伝承と思われる。
大手口と伝わる入り口には、これを守るように小規模な曲輪が複数設けられ、城内へ大きく回り込ませる工夫がされている。
また「蔵屋敷」と伝わる広い曲輪の入り口南側にも小高い部分があり、二つの連結した曲輪が配置され、敵の侵入を阻む意図が見受けられる。
最高所となる山頂部が「本城」と伝わる所には、ここに通じる道から敵の侵入を防ぐ曲輪が連続して設けられ、土塁などで巧みに防御されている。


山頂部からの眺望は優れ、城下だけでなく甲武国境方面までも見通すことができる。
また麓から山頂への途中にも遺構が点在する。現在、丸山公園には展望台が設けられているが、ここは小高い台状の遺構があり、城の防衛に関わるものだったと考えられる。
この他に西側の浅利方面に向かう道を塞ぐように搦手門と伝わる遺構が残る。
さらに岩殿城で特筆されるのは亀ヵ池の存在で、二つある池はそれぞれ飲用水、馬洗水という用途分けがされていた。
現在でも一日1200リットルの水が湧き出していることが発掘調査で確認され、このため籠城に際して飲用水欠乏の心配はまずなかったと考えられる。


岩殿城は岩殿山円通寺があった信仰の山に立地し、円通寺は中世には京都聖護院を本山とする本山派修験の中心だった。
境内には円通寺、三重塔、七社権現、常楽院など多数の堂宇があったといい、明治維新まで壮大な伽藍を誇っていた。
城下はこの円通寺の門前町にあたる岩殿宿と、岩殿城の根古屋とされる強瀬宿がある。特に強瀬には「御所」「殿畠」「元馬場」「見附ノ内」「カヂ畠」などの致命があり、岩殿城に駐留する武士が居住した地域と考えられている。
この二つの宿は葛野川の段丘上に位置するが、その入り口にあたる神宮橋付近は堀状に掘削された痕跡があり、外部と隔絶させる意図があったと思われる。


岩殿城周辺の主要交通路は、桂川の対岸を旧甲州街道が通っており、岩殿城へは下和田から強瀬宿あるいは畑倉から岩殿宿を経て大手口に登ることができた。
強瀬から岩殿山麓を伝って浅利宿に抜ける古道もあり、これは浅利川、笹子川を越えて花咲へと通じ、旧甲州街道に合流した。


【歴史】
岩殿城をいつ誰が築城したのかは記録になく、明らかになっていない。
従来では岩殿城は都留郡の有力国衆である小山田氏が築城したとされてきた。ただし、『甲陽軍鑑』には小山田氏の属城という記述は存在しない。
小山田氏による築城説が唱えられ始めたのは近世中期以降のことで、萩原元克が天明3年(1783年)に著した『甲斐名勝志』で初めて登場し、その後文化11年(1814年)に成立した甲斐国の地誌である『甲斐国志』によって定説となっていった。
『甲斐国志』には岩殿城の築城を、小山田氏が中津森から谷村に居館を移したのと合わせて実施したものと記述されており、これは武田氏の躑躅ヶ崎館要害山城を念頭に置いたものと考えられる。
つまり岩殿城の小山田氏築城説は、居館―詰城セット論の典型といえる。


しかし1960年代から小山田氏が築城したという説に疑問が投げかけられた。岩殿城を谷村館の詰城とするにはその距離12キロメートルと離れすぎていること、岩殿城は甲斐・相模の国境をという要衝に位置しており、ここを戦略上重視するのは小山田氏よりも武田氏であること、つまり岩殿城は武田氏が領国防衛の拠点として築城し、大月周辺とその東部一帯を守る中枢と位置づけ、情報伝達のための狼煙台としても機能させたという。
このように岩殿城が小山田氏の城か武田氏の城かについては議論が続けられている。


永正17年(1520年)、岩殿山に所在した七社権現の修造があったが、この時に小山田出羽守信有が「当郡守護」として武田信友とともに参加している。
永禄11年(1568年)には信有の子の信茂が七社権現に「戸張七掛」を寄進している。
元亀4年(1573年)7月3日に信茂が菩提寺である長生寺に与えた寺領寄進目録には、岩殿城周辺の所領として花咲、幡倉、藤崎があり、花咲は出羽守信有、幡倉は信茂が寄進主体となっている。
小山田氏によって寄進された他の長生寺領は現在の都留市から西桂町域に集中しており、小山田氏の伝統的な支配領域は都留周辺から岩殿城周辺であるとの見方がある。
このように小山田氏の所領は谷村を中心とする地域と岩殿城を中心とする地域に広く分布し、これらが小形山・近ヶ坂峠を結ぶ山地を境界として明確に分けられ、岩殿城が笹子川と桂川周辺の所領支配と警固のために小山田氏によって築城された可能性も示唆されている。


天正8年(1580年)5月、北条氏が甲武国境を越えて都留郡西原に侵攻し、武田軍と交戦した。
この時に小山田氏の所領も北条氏の脅威にさらされたが、このように国衆が敵勢力の軍事的脅威を受けた場合、大名はその安全保障のために軍勢を配備し、支援する必要があった。また国衆はそのような場合に必要に応じて本拠地や所領の城砦に大名の軍勢の駐留や配置を受け入れることが通例だった。
この北条氏の侵攻に際しては天正9年(1581年)3月20日付けで、武田氏が萩原豊前に宛てて岩殿城に在城し城普請を行うように命じた朱印状が残っており、事態に対応したことがうかがえる。
萩原豊前が在城を命じられた翌月にも北条氏は再び都留郡に侵攻し、これに対応するため武田氏は岩殿城の防衛強化を図ったと考えられる。


天正10年(1582年)には織田信長が武田領に侵攻し、真田昌幸が武田勝頼に新府城から岩櫃城に退去することを提案したのに対し、岩殿城主の小山田信茂は岩殿城への退去を進言した。
この時のやり取りは、『理慶尼記』に「みつからか在所、都留の郡岩殿山と申は、およそ天下そむき候とも、一持もつべき山にてあり、そのへ御こししかるべき」と記されている。
なお、この後に信茂は勝頼を裏切り甲斐武田氏を滅亡に追い込んだとともに、自身も武田氏への不忠を咎められ甲斐善光寺で処刑され、小山田氏も滅亡した。
小山田氏の滅亡後、岩殿城には信長の家臣である川尻秀隆が入ったが、同年に本能寺の変がで信長が横死すると旧武田領の各地で武田の旧臣による国人一揆が起こり、秀隆はこれを抑えきれず討ち死にした。
秀隆死後の甲斐ではその領有をめぐって北条氏直と徳川家康が争う天正壬午の乱が起こり、岩殿城は双方の拠点として利用された。最終的に甲斐は徳川氏が領有することとなり、乱は終結した。
天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康は関東に入封され、甲斐は豊臣氏の所領となったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は再び徳川氏が領有した。
江戸城を本拠とした家康は危急の際は甲斐へ退去することを想定していたとされ、岩殿城も要塞として存続することとなったが、17世紀初めに廃城となった。

所在地山梨県大月市賑岡町大字強瀬字西山
現存状態曲輪、空堀、土塁など
城郭構造連郭式山城

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