岩殿城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報【城郭構造】 岩殿城の遺構は山頂部に集中しており、一部鉄塔建設などで破壊されているものの、よく残されている。 山頂部からの眺望は優れ、城下だけでなく甲武国境方面までも見通すことができる。 岩殿城は岩殿山円通寺があった信仰の山に立地し、円通寺は中世には京都聖護院を本山とする本山派修験の中心だった。 岩殿城周辺の主要交通路は、桂川の対岸を旧甲州街道が通っており、岩殿城へは下和田から強瀬宿あるいは畑倉から岩殿宿を経て大手口に登ることができた。 【歴史】 しかし1960年代から小山田氏が築城したという説に疑問が投げかけられた。岩殿城を谷村館の詰城とするにはその距離12キロメートルと離れすぎていること、岩殿城は甲斐・相模の国境をという要衝に位置しており、ここを戦略上重視するのは小山田氏よりも武田氏であること、つまり岩殿城は武田氏が領国防衛の拠点として築城し、大月周辺とその東部一帯を守る中枢と位置づけ、情報伝達のための狼煙台としても機能させたという。 永正17年(1520年)、岩殿山に所在した七社権現の修造があったが、この時に小山田出羽守信有が「当郡守護」として武田信友とともに参加している。 天正8年(1580年)5月、北条氏が甲武国境を越えて都留郡西原に侵攻し、武田軍と交戦した。 天正10年(1582年)には織田信長が武田領に侵攻し、真田昌幸が武田勝頼に新府城から岩櫃城に退去することを提案したのに対し、岩殿城主の小山田信茂は岩殿城への退去を進言した。
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