岩屋城 のバックアップ差分(No.3)

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*現実の城情報 [#information]

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天文年間(1532年~1554年)に大友氏の家臣である高橋鑑種によって、宝満山城の支城として築かれたとされる。
鑑種が大友宗麟に叛き城を追われた後は、吉弘鎮種(後の高橋紹運)が城主となり高橋の姓も受け継いだ。
四天王寺山の中腹に築かれた岩屋城は、大友氏の本拠豊後を守る筑前の最前線基地であり、本丸から南に伸びる尾根には曲輪が連なり、多数の堀切や竪堀が設けられた。
このため城の南側は特に守りが堅く、虚空蔵砦・西の山砦・西の岩屋砦・百貫島砦なども構えられていた。
本丸からは城下がよく見え、太宰府天満宮や太宰府政庁跡、水城などを見渡すことができる。

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|所在地|福岡県太宰府市浦城|
|現存状態|土塁、堀切など|
|城郭構造|山城|

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&color(White,Maroon){嗚呼壮烈岩屋城(クリックで表示)};
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**嗚呼壮烈岩屋城[#kc0f6bc5]

天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏は島津氏に大敗し、衰退の一途を辿った。島津氏は天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで[[村中城]]主の龍造寺隆信を破り、筑後を制圧した後は筑前に侵攻することとなった。
天正14年(1586年)7月、島津軍は筑前の最前線にあたる岩屋城に迫った。この時岩屋城を守る城兵はわずか763人、対する島津軍は2万を超える大軍だったという。
島津軍の総大将島津忠長は降伏を勧告、実子の立花宗茂も岩屋城からの退去を勧めたが紹運はこれを拒絶。紹運は主家である大友家、そして宗茂の立花山城を守るため、玉砕覚悟の徹底抗戦を挑んだのである。
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圧倒的な兵力差ですぐに決着がつくかと思われたが紹運指揮の下で城兵はよく守り、半月もの間籠城戦を展開した。しかし島津軍の犠牲を顧みない総攻撃によって力尽き、紹運以下763人の城兵はことごとく玉砕したという。
島津軍は岩屋城を攻略したものの被害は甚大で、その後立花山城を攻撃した際には宗茂によって撃退された。
宗茂はさらに撤退する島津軍を追撃し奪われた拠点を次々に奪回、ついには岩屋城をも取り戻した。後に宗茂が城主となった[[柳川城]]の「弔い合戦は望むところです!」という台詞はこれを表しているのかもしれない。
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現在、岩屋城の本丸跡には「嗚呼壮烈岩屋城址」と書かれた石碑が建てられており、激戦の舞台だったことを偲ばせる。
二の丸には紹運の墓と戦没者慰霊碑が建てられている。岩屋城が落城した7月27日には毎年供養する人々が訪れ、紹運の菩提寺の西正寺で岩屋城合戦犠牲者追悼法要が行われる。法要は古くから代々行われ、50年毎に大きな法要を行っている。

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